長編小説『悪魔の正しい死に方』
第三章 悪魔が捧げる幸せ
藤沢は安藤宅のインターホンを押す。返事は無い。
「動くな」
首元を尻尾が横切る。声の主は黒永だった。耳打ちする。
「正継を誘拐したのってキミ?」
藤沢は毅然と答える。
「話の流れが見えません」
黒永は尻尾を首元に残し、尻尾を伸ばしつつアパートの裏へ飛ぶ。藤沢はついて行く。安藤宅の窓の内側に紙が貼られている。藤沢が紙を読む。顔色を変えずに言う。
「つまりこういうことでしょうか。安藤さんは何者かに誘拐され、人質にされている。私はその誘拐犯だと疑われている」
「そ。で、どうなの」
「否定します。安藤さんが誘拐されたのは私が退去してから今、訪問するまでの間。一時間も無い。私はその間近くの飲食店にいました。監視カメラを確認すればわかります」
「ふーん。じゃあなんで戻ってきたの?」
「安藤さんの連絡先をうかがっていないと気がついたからです。私は普段都内で仕事をしておりますので、容易にこちらには来られません。ですからこちらにいるうちに連絡先をうかがいたかったのです」
「なるほどねぇ」
黒永は尻尾を下ろさない。
「正直さぁ、キミって怪しいんだよね」
「なぜでしょう」
「江島と同じ匂いがする」
「匂いですか。私にはわかりませんが、貴方が疑うには十分な根拠なのでしょう」
藤沢は一度瞬きした後、口を開く。
「しかし私を殺さない方が賢明かと」
「……ケンメー?」
「賢い、良いということです」
「じゃあそう言ってよ、難しい言葉使わないで」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
「で、命乞いをする理由は何?」
「私と貴方が協力すれば、安藤さんを助けられるかもしれません」
黒永が目を細める。
「一度尻尾を離していただけませんか。殺すのは話を聞いてからでもよいでしょう」
黒永は尻尾を離す。藤沢は黒永に向き直る。
「まず貴方が安藤さんの誘拐に気がついたのは、この紙を見たからですね」
黒永はためらいがちにうなずく。
「そうだけど、おかしいなって思ったのはもっと前。正継が出かけてるなって思って、そしたら道を歩いてた正継の気配が消えた。道に正継はいなくて、家に来てみたらあの張り紙があったんだ」
「貴方は安藤さんを探されたのですか」
「散々探した。でもどこにもいない」
「どこにもいない、という根拠はなんでしょう」
「さっきも言ったけど、どこにも正継の気配が無いし、それに街中目で見て回ったけど見当たらなかったんだよ」
「街中、というのは比喩でしょうか」
「ヒユ……」
「たとえ話のことです」
「本当だよ。怒田汲市ぜーんぶ」
「それはすごいですね」
「とーぜん、オレは強い悪魔だもん」唇をとがらせる。
「有益な情報です。おそらく犯人は物体の気配を消す能力を持っています。そしてどこか室内に安藤さんを監禁している」
「なんでわかるの」黒永はうろたえる。
「簡単な推理です。気配が無いなら消したのでしょう。安藤さんが消えた瞬間から察せられます。貴方の確認方法はおそらく目視と思われますが、外から見ていないのなら、中にいるのです。便宜上室内と言いましたが、洞穴などの可能性もあります」
言われてみればそうだと黒永はうなずく。
「どうでしょうか。私は貴方にできない推理という能力があります。貴方の力では見つけられない以上、推理の力を頼ってみてはいかがですか。他に頼る人間もいないでしょう」
黒永は下唇を持ち上げてうなり、首や体を回した後、うなずく。
「しょーがない。キミしかいないからね。協力しよう」
「ありがとうございます」辺りを見回す。「ゆっくり話ができるところに行きましょう」
「なら正継んち借りよ」
黒永は窓から中に入る。藤沢は少し考えた後、ベランダをまたいで部屋に入った。
二人で机を囲み話し始める。
「我々が調べるべきことは、安藤さんがどこに監禁されているかです。そのために使える情報はまず六つ。いつ、どこで、誰に、なぜ、何で、どうやって誘拐されたのか。順番に整理していきましょう」
藤沢はタブレット端末を机に置き、メモアプリを開くと、情報を書き込んでいく。
「いつ、どこではわかりますね」
「十時四十分、この家からちょっと遠いところにある道だね」
藤沢が開いた地図アプリから、黒永が場所を特定する。何枚か撮影したスクリーンショットをメモアプリに貼り、赤丸を入れる。
「誰に誘拐されたか心当たりはありますか」
「江島心じゃないかな。気配を消す能力で思い出したけど、祭りの悪魔の能力がそうだったんだよ。江島心が心臓を食べたってことは、能力は江島心が持ってる」
「江島なら動機もありますね。復讐相手の息子ですから殺そうとしてもおかしくはない。あるいは貴方を呼び出して能力を奪おうとしているのかもしれない」
黒永は舌打ちする。
「戦いたいなら直接呼び出せばいいのに!」
「強制力があった方が確実ですからね。では仮に、犯人を江島とします。どうやって誘拐したのでしょう」
黒永が首をひねる。
「安藤さんが誘拐される前後に気がついたことはありませんでしたか」
「そういえば、正継がいなくなった道の周り、全然人の気配がしなかったな」
「どのくらいの範囲でしょう」
「範囲って言われるとわかんないな。フツーに人がいない道だったから」
「もしかすると、気配を隠す能力はかなり応用が利くのかもしれませんね。例えば道に能力を使うことで、誰かに悟られないよう移動し続けられるとか。人が元々いない道を選べば不自然ではありませんし」
「うぅー、悔しいな、あのとき気配が無いとこを追っておけばよかった」
藤沢はメモアプリに情報を書き込むと、その下に線を引いて新しく見出しを書く。
「これで六つの情報は出そろいました。まだこれだけでは推理できませんので、追加で情報を探します。犯人の行動範囲について調べましょう」
「それがわかると何がわかるの?」
「安藤さんを探すべき範囲がわかります。例えば犯人が、一時間で海外に行ける能力があるとします。すると探す範囲は海外にまで広がります。捜索は現実的ではありません」
「そんなぁ」
「逆に一時間でこの街からは出られないのなら、この街のどこかには必ずいます」
「ほほん、かしこい」
「ありがとうございます」会釈する。
藤沢がタブレットで交通情報を検索する。
「移動手段として一番考えられるのは車です。江島は運転免許非所持ですが、法律に反しても良いと考えている可能性もあります。今日は少し混んでいますね。一時間で街から出られるかどうかでしょうか」
「うーん、でも車って使わないんじゃない?」
「なぜでしょう」
「たぶん車の気配を消して移動すると思うんだけど、そしたら他の人間からわからなくなるでしょ。事故っちゃうよ」
藤沢が目を開く。
「気づきませんでした。可能性は低そうですね。他の能力で移動するのはどうでしょう」
黒永が腕を組む。
「たぶん、この街からすぐ出られる能力は無いと思う。
逃げるための能力を持っていたとして、もし息切れすることが無いなら、江島は一時間でこの街から出られるかも。でもありえない。悪魔が能力に使えるエネルギーは限られているから。
能力を使うときは魂と願いを消費する。魂と願いのバランスがとれないと、願いの重さで動けなくなったり、体が浮きすぎたりする。江島心の願いの量を考えると、魂はそんなに持ってないだろうね。だとしたら魂を節約したいんじゃないかな」
「悪魔の力で移動するのは現実的ではなさそうですね」
「使ったとしても一部だろうね。祭りの悪魔の能力で精一杯ってとこ?」
藤沢は眉間に指を当てて考える。離してから再びメモアプリにペンを走らせる。
「別の視点からも考えましょう。今ある情報を整理します。あの紙ですが」藤沢が窓を目線で示し、読み上げる。「深夜零時、幸美の浜にて待つ。来なければ安藤を殺す」
「幸美の浜ってどこだろ」
藤沢が検索する。
「この街にある浜の名前ですね」
「あそこそんな名前だったんだ」
藤沢は地図アプリで幸美の浜周辺をスクリーンショットしメモアプリに貼り付ける。少しためらった後、話し出す。
「犯人は幸美の浜の近くに安藤さんを監禁するのではないでしょうか」
「えっ、なんで?」
「来なければ安藤さんを殺すと書いてあります。貴方が来なかった場合、すぐ人質を殺したいと考えるのが犯人の心情かと。悪魔の能力で遠くから殺す可能性もありますが……」
「その場合、すごく魂を使うだろうね。能力の範囲が広くても使う魂は増えるから」
「でしたら、遠くと言っても幸美の浜の周りに留まるかもしれません。あるいは『人質は自分の手元に置いておきたい』というのも犯人の心情としてありえることですね」
「じゃあそれだよ! 幸美の浜の周りに正継はいる!」
藤沢はうっすら眉間にしわを寄せる。
「ただ根拠が無い。私の想像の話ですから」
「コンキョってそんなに大事かな? フィーリングが合ってるってこともあるよ」
「報道の世界では、根拠の無い記事で人を危険にさらすことも、殺すこともあります。根拠が無ければ簡単には動けません」
「ふーん。じゃあオレが調べてきてあげるよ」
驚いて見上げる藤沢をよそに、黒永は外へ飛び立つと、すぐに戻ってくる。
「幸美の浜の周りで、気配が無い建物とかを調べてきたよ」
藤沢は驚きつつ、すかさずメモアプリの地図にペンを向け、黒永が指を指した地点に赤丸を付ける。
「少し多いですが、調べられる範囲ですね。ただ気配が無いだけでは根拠が――」
「りょーかい!」
また黒永は飛び立ち、今度は少し時間が経ってから戻ってくる。
「赤丸付けたとこの周りで、江島心を見たって人を探してきたよ」
「……この短時間に?」
「写真見せたらみんなすぐわかったよ」
黒永は手に持った写真をヒラヒラさせる。藤沢が撮影した江島心の写真だった。ただし藤沢が持つ写真より黒ずんでいる。
「その写真、作ったのですか」
「うん。こーゆうの得意だから」
藤沢はまじまじと写真を見つめる。
「コンキョってこれで足りそう?」
ハッとした藤沢はペンを持ち直す。
「証言があった場所を教えてください。その辺りは江島が視察をしていた可能性が高い」
黒永が証言を聞き出した場所を青丸で書き込む。
「これでいくつかの候補は除外できました」
「あとはなんのコンキョがいるの?」
「そうですね、例えば建物の契約情報などでしょうか」
「オーケー! じゃあ――」
「待ってください。この情報は貴方には調べられません」
「えー! なんでなんで」
「この情報は信用の無い者には教えてもらえないのです」
「聞き出せばいいじゃん」
「不可能です。例えば知らない人間に安藤さんのパンツの色を聞かれて答えますか」
「はぁ? 答えないよ」
「では警察であれば?」
「うーん、警察ならしょうがないかも。答えないと怒られるし」
「貴方には警察と違って権力も強制力もありません。ですから相手には答えなくてもいいと考えるのです」
「じゃあ脅せばいいんじゃない?」
藤沢が目を細める。言葉を選ぶように言う。
「今回は脅すという手段は有効ではありません。もし相手が脅しに耐えるという選択をすればタイムロスになってしまいます。不確実な方法より確実な方法をとりましょう」
「それもそっか。キミは調べられるの?」
「貴方よりかは確実に調べられます」
藤沢はメモアプリに貼り付けた地図の下に線を引き、見出しを書く。
「これからの方針を整理しましょう。
まず貴方がリストアップした監禁場所候補を調べます。監禁場所が見つかった場合は、助け出す方法を考えましょう。見つからなかった場合はまた候補のリストアップをします。余裕があれば江島が安藤さんを誘拐・監禁する根拠を探します。
監禁場所が見つかっても見つからなくても、貴方は江島の指定通り、深夜零時に幸美の浜に向かってください。江島に安藤さんの捜索を悟られないようにするためです。監禁場所が見つかった場合は、貴方と江島が幸美の浜にいる間に、私が監禁場所に向かい、可能であれば救出します。これは江島が確実にいない時間を狙うことで、救出を容易にするためです。悪魔のなんらかの能力で不可能な場合は、監禁場所の監視にとどめます。
今日中に解決しない場合は通報しましょう。悪魔が関係しているとなると捜索はほぼ不可能と思われますが、我々では調べられない範囲を調べられる可能性があります。
以上が今後の方針です。質問などありますか」
「質問でーす」
「なんでしょう」
「そんなめんどーなことしないでさ、浜辺らへん、ぜーんぶぶっ壊せばよくない?」
沈黙が流れる。黒永は気にせず話す。
「だってそうでしょ? 正継がいそうな辺りをぶっ壊せば正継見つかるじゃん」
藤沢は机に肘を突き、苦しい顔で眉間をつまむ。
「どしたの? 頭痛い?」
「ええ、貴方と話すと頭痛がする」
「大変だね、薬飲んだ方がいいよ」
藤沢は眉間にしわを寄せたまま、声を少し低くして話す。合成音声のような平坦さが抜けていた。
「浜辺周辺をぶっ壊すと言いましたけど、それでは安藤さんも巻き込まれますよ」
「大丈夫! オレは正継以外ならなんでも壊す能力があるんだ」
「安藤さん以外はどうなってもいいと」
「とーぜんでしょ」いつもの調子で答える。「そこにある物を壊すって、そんな変なこと? そりゃ大人には怒られるよ。でも大人もさ、気に入らなかったら物たたいたり壊したりするじゃん。ゲームとかでも、ジャマな壁とかモンスターとか壊したりするし。それと何も変わらないよ」
藤沢が手を組む。
「もし貴方の言うとおり浜周辺を破壊したとして、安藤さんはなんて言うと思います」
「あ~……」黒永は口をへの字にして首をひねる。「それ考えてなかった。『人食べるとき以外は人殺すなって言ったろ!』……って言われちゃう」
そうだ、と手をたたく。
「じゃあ浜らへんの人間全部食って、それから壊せばいいんだよ。オレって天才!」
藤沢が組んだ手を握りしめ、黒永をにらむ。
「……オレ、また何か見落としてる?」
「安藤さんの言う『人を食べるとき以外殺すな』は、人を食べるなら殺していいという意味ではありません。本当は人を殺してほしくないけれど、食事だけはしょうがないので例外的に許しているんです」
「なんでキミが正継を語るわけ?」黒永もにらむ。「正継のことよく知らないくせに」
「むしろ長くそばにいてそんなこともわからないんですか」
「何その言い方、むかつく~!」
歯ぎしりする黒永から視線を落とした藤沢は、目を閉じて、組んだ手に鼻を当てる。息を吐いた後、顔を上げる。
「きつく言い過ぎました。貴方は安藤さんと長くともにいるのですから、思い返してみてください。貴方が人を壊そうとしたとき、安藤さんはどう反応をしていましたか」
黒永の顔が曇る。藤沢から視線を外す。
「……あんまりうれしそうじゃなかった」
「貴方は人を壊して安藤さんを助けるすると言いましたが、それではまた安藤さんを悲しませることになります」
「でもさ、正継を助けるためならしょうがなくない? そりゃちょっと悲しませるけど、正継の命には代えられないよ」
「命に代えられない、という部分には同意します」
なら、と言う黒永の声を遮る。
「ですから最終手段にしましょう。なるべく安藤さんを悲しませない方法で助ける。貴方にはその能力がある。貴方が強い悪魔だからこそ成し遂げられることです」
「オレだからできる……」
黒永は「うーん」とうなった後、意を決して話す。
「わかった。なるべく人は壊さない。でも無理そうだったオレのやり方でやるから」
「了解しました。でしたら、明日までに助けられなかった場合、貴方の方法でやる、ということでどうでしょう。安藤さんの命が危ういと感じた場合でも、貴方の方法で」
「オーケー、それでいーよ」
「では先ほどの方針で行動しましょう」
「先ほどのホーシン、ってなんだっけ?」
藤沢が難しい顔をする。
「……とりあえずついてきてください。深夜零時に幸美の浜に行くこと。詳しい方針――予定は紙に書いて、ここに置いておきます。わからなくなったら見に来てください」
黒永と藤沢は安藤の監禁場所候補の捜索を開始する。候補の情報を調べたり、証言を詳しく集めたりしながら街を歩く。
幸美の浜で休憩することになった二人は、整備された道に立ち、浜を見渡す。人はそれなりだ。階段に座って海を眺める人、犬の散歩をする人、堤防の先へ行く人などがいる。道を行く人が黒永をいぶかしげに見る。藤沢が瞬きする間に黒永の角や翼が消えた。耳も人間のように丸くなりパーカーを着ている。それでも黒永を珍しそうに見る人がいた。
幸美の浜の入り口は道が整備されていたが、遠くには自然のままの浜が広がっている。砂利や岩が多い、灰色の浜辺だった。
藤沢は飲んでいた水筒をしまうと、海を見ながら黒永に話しかけた。
「貴方は安藤さんのことが大切なのですね」
「ん? そうだよ」
急な話題に黒永は不思議そうな顔をする。
「貴方にとって、安藤さんとはどういう人なのですか」
「それって調査に関係ある?」
「江島が人質に選んだ理由がわかるかもしれませんね」
「ふーん」
黒永は空を見る。
「正継はオレにとって、人じゃない、唯一の友達だ」
藤沢が怪訝そうに黒永を横目に見る。
「意味がわかりません。人と友達の間につながりがありません」
「めちゃくちゃつながってるでしょぉー」不満そうな顔をする。
「貴方しか知らない情報で話さないでください。こっちはエスパーじゃないんですよ」
「頭良くてもわからないことあるんだね」
「頭の良し悪しの問題ではなく、論理性と配慮の問題です」
「また難しい言葉使う」顔をしかめる。
「それで、どうして人ではなく、友達なのですか」
黒永は口をとがらせたが、すぐ力を緩めて語り出す。
「どこから話せばいいのかな。まずオレってさ、悪魔なんだよね、生まれた頃から。みんなから悪魔って言われてた。体が悪魔になってから昔の記憶って消えがちなんだけど、これは覚えてる。オレも自分が悪魔なんだって思ってた。
ずっと世界に一人ぼっちだった。オレにとって、絵本も、おもちゃも、人間も、みんな同じ物だ。生きていると思えるものが何も無かった。
正継だけが生きてたんだ。正継が泣いたら悲しくなるし、正継が笑ったらうれしくなる。それで思ったんだ、正継は悪魔なんだって。オレと同じ、心が悪魔で、体は人間に生まれてしまったんだって」
正継ってさ、と目を細めて静かに笑う。
「オレと違って弱いんだ。オレは強い人間の体に生まれたけど、正継は弱い人間の体に生まれちゃった。それに正継って、悪魔だけど人間に優しいんだ。頭がいいからオレよりいろんなことがわかってて、いろんなことができて、人間に優しくできる。でも、」真剣な顔になる。「人間はそういう正継の優しさにつけこむ。正継を傷つけて苦しめる。正継を守ってあげられるのはオレだけなんだ。世界でたった二人の悪魔だから、オレが守らなきゃいけないんだ」
黒永は拳を握りしめる。藤沢は顔ごと黒永を見上げていた。通る声で話す。
「私はそう思いません」
「そっちから聞いといて何? その返し」
「私は安藤さんのことを人間だと思います」
黒永はじっと藤沢を見る。怒りと同時に興味があった。黒永の話を聞いて安藤を人間だと言う人は、人生で三人目だった。そしてそう言う人間は、自分を追い詰めることを知っていた。
黒永は静かに、しかし声は明瞭なまま聞く。
「なんでそう思うの」
「今まで見た悪魔と安藤さんが同じ存在だと思えないからです。
私は悪魔事件の調査をする身。自分から悪魔を調べるのは不得手ですが、悪魔と遭遇することはあります。
悪魔は誰もが歪んだ決意をしている。生まれたばかりの他人の赤子を洗脳して自分の家族と言い張った悪魔。自分で殺した親友を不完全に蘇らせては殺す悪魔。自分を苦しめる狭い世界が許せないと街を滅ぼした悪魔。彼らの言い分は『家族がいなくて寂しかった』『完璧な親友を蘇らせるために仕方ない』『最初に攻撃してきたのは世界の方だ』などと様々です。しかし共通項として、言い訳の正当化があります。
悪魔の中には不遇な境遇にいた者もいます。同情の余地が無いとは言いません。しかしその境遇を言い訳にして人を不当に傷つけている。自分が一番正しいと思い込んで、自分の正しさのためには仕方がないと言って、傷つく人に見向きもしない。
安藤さんはそういう人ではないと思います」
「コンキョは?」
「感です」
「コンキョが大事ってキミが言ったんでしょ」
「フィーリングが合っているときもある、と言ったのは貴方ですよ」
私は、と藤沢。
「自分の感を信じています。安藤さんは自分の正しさを一番自分で疑う人です。正しさのために誰かが傷つくのを見過ごせない。だからこそ本当に正しい生き方ができる人だと思います」
「キミは何もわかってないな」
黒永は肩を下げる。
「キミの言葉を借りるなら、正継はオレより歪んだ決意をしてるね。正継が人間に優しいのは自分や大事な人が傷ついてほしくないからだよ。人間を傷つけたらやり返されるから自分からは何もしないだけ。やり返されないなら人間が傷ついてたっていいと思ってる。正継は自分の正しさが一番大事だ。自分がこの世で一番弱いと思ってて、弱い自分や仲間のためなら何をしてでも守る。傷つく人から目をそらす。キミの言う悪魔と同じだ。
それに、オレとキミじゃ悪魔の感じ方が違う。キミは体が悪魔なら悪魔だと、オレは心が悪魔なら悪魔だと思う。そこが違うから話にならない」
「貴方の考えと私の考えはまるで違いますね」
「そりゃそうだ、キミはオレが嫌いだからね」
「ええ、同感です、貴方も私が嫌いですから」
海風が体を通り抜ける。冷たい風を受けて、近くにいた人が寒そうに腕をこすった。藤沢は黒永を見る。黒永は平然と海を見ている。藤沢も海を見る。
「これは頭の良い人間から贈る善意のアドバイスですが」
「自分で頭良いって言う?」
「貴方が自分の考えを変えないかぎり、安藤さんを守ることはできませんよ」
黒永は眉をピクリと動かす。
「またケンカするつもり?」
「してもいいですが、今は止めといてあげます。先に言ったとおり善意です」
「……まあ、ちょっとは聞いてあげるよ」
藤沢は体を黒永の方に向ける。黒永は横目に藤沢を見下した。藤沢の眉は鋭い。目を少し見開き、丸く茶色い瞳は動かずに黒永を捉える。
「貴方は世界で二人だけの悪魔と言いました。それは否定しません。だからこそわかっているはずです。この世界には人間の方が圧倒的に多い。
貴方は安藤さんを守るため人間を大勢殺すでしょう。そして殺した人間の分以上に恨まれる。大切な人を殺された者も、殺されることを恐れる者も、断罪がしたい者も、貴方を敵と見なし戦う。貴方は街一つを楽に壊せる。しかし群れた人間は同じことができます。
貴方はすでにそれを経験しているはずです。安藤さんを守るために両親を殺した貴方を探しだし裁く人間がいた。貴方は安藤さんを守るために、安藤さんにとって一番大切な貴方を失わせてしまったんです。
それに貴方が恨まれれば、貴方を傷つけるために安藤さんを攻撃しようとする人もいるでしょう。まさに今がそれです。安藤さんを守ろうとして余計に危険にさらしてしまう」
藤沢の声がひときわ大きくなる。
「一番間違っているのは、安藤さんが悲しむとわかっていながら人を傷つけようとすることです。貴方は安藤さんが悲しむことがわかるはずです。ならなぜその気持ちを大事にしてあげないのですか。安藤さんを守る建前で、結局自分の気持ちで動いているだけじゃないですか」
黒永は首をそらしても、目をそらすことができなかった。前にもこんなことがあったと思うと、気持ち悪くなる。
藤沢は黒永の顔を見つめて、視線を落とす。
「感情的に言い過ぎました。すみません」
ですが、と顔を上げる。
「安藤さんのことを思うなら、安藤さんを本当に幸せにする方法を考えてください」
黒永は顔を背けたままうつむく。そのまま何も言わなくなる。少し言葉を待ってから、藤沢は浜の入り口に体を向けた。
「行きましょうか。我々は嫌い合う者同士ですが、安藤さんを助けたいと思う同志でもあります。今は安藤さん救出に専念しましょう」
「……そうだね、それは賛成」
二人は浜を出る。
証拠を集めた黒永と藤沢は、安藤の監禁場所候補を三つにまで絞り込んだ。
「三つ以下にできないね」黒永が頭をかく。
「おそらくすべて江島が用意した監禁場所なのでしょう。例えば一つの監禁場所に問題が起きた際に場所を移動できますし、安藤さんを捜索する者に対してカモフラージュの役割が期待できます」
二人は三つの監禁場所候補を順に訪れる。最後の候補は小さなマンションだった。かなり年季が入っており、マンション全体が黒ずんでいる。
黒永が壁に尻尾を当てる。尻尾は崩れ、黒い液体が細く流れ出し、すぐ止まる。
「ここも同じですね」
「うん、悪魔の力が使われてる。祭りの悪魔の能力と、もう一つの何か」
「貴方の体を破壊できる能力ですね。本来悪魔としては弱い江島が、なぜか貴方を破壊できる能力」
本来、弱い悪魔の攻撃は強い悪魔に通らない。例えば同じ竜巻を起こす能力を持つ悪魔が竜巻をぶつけ合えば、強い悪魔の竜巻が威力で勝ち、弱い悪魔の竜巻を打ち消す。
「建物全体にこの能力が使われているとすれば、貴方はこの建物には入れませんね」
「入れないし、壊すのも苦労するだろうね。攻撃が通用しづらいはずだから。ただ、」
黒永が今し方尻尾を当てた部分を指す。黒ずんでいた壁が少し明るい色になっている。
「この部分、能力で作った幕が張ってあったんだと思うけど、ちょっと壊れてる」
「まるで矛と盾のようです」
「何それ」
「何でも壊せる武器と、何で攻撃されても壊れない防具があったらどうなるか、というお話があるんです」
「また難しい話だね」
「それで思い至ったのですが、この建物に使われている能力は、悪魔を破壊できる能力、と考えてみるのはどうでしょう」
黒永が首を傾げる。
「つまり、安藤さん以外を壊す能力と、悪魔を壊す能力がぶつかれば、どちらも壊れるというわけです」
「ほほーん、やっぱり頭はいいね」
「一言余計です」
「じゃあ、オレがこの建物ぶっ壊すってのはどう」建物を殴るジェスチャーをする。「人に当たらないように努力するけど」と付け加える。
「ベストな選択とは言えません。この幕を壊したその瞬間、江島が外の気配に気がつくはずです。そこで江島と戦うことになれば周りに被害が出ますし、もし江島が安藤さんを殺してしまえば目的が達成できません。あるいはこの幕にアラームのような機能が付いていれば、江島がいない時間を狙っても救出に気がつかれます。江島に遠隔で安藤さんを殺す能力や手段があれば安藤さんの命が危うい」
「そっかぁ」しょぼくれる。
「当初の予定通り、江島が確実にいない時間を狙って、私が安藤さんを助けます。人間が通る分には問題ないようですし。貴方は幸美の浜で江島に会ってください。もし江島が私の存在に気がついたり、遠隔で能力を使おうとしたら、全力で止めてください」
「いーよ、やってあげる」
藤沢がスマホを見る。
「零時までまだ時間がありますね」
顔を上げる。
「これから江島が安藤さんを誘拐する根拠を探しましょう。ですがその前に。もしかすると、幸美の浜で貴方は江島と戦闘になるかもしれません」
「かもっていうか、ほぼ確そうでしょ」
「一応根拠が無いので。その戦闘においても、貴方は人間を壊したり、人間に怒られるようなことをしてはいけません」
「またぁ~?」眉間と目を思いっきり寄せる。
「江島を殺してもだめです。江島はまだ悪魔疑惑の段階ですから」
「ほとんど悪魔でしょ、いいじゃんソイツくらい」
「安藤さんを悲しませたいんですか?」下唇を持ち上げてジトリと見る。
「それは、そうだけどぉ」手を組んで縮こまる。
「なら言うことを聞いてください。では歩きながら作戦会議をします。現時点でわかる江島の能力を整理して、それに対抗し得る貴方の能力を探りましょう」
「手の内明かしたくないんだけどなぁ」
素早く歩き出す藤沢に、黒永はとぼとぼついていった。
深夜零時。幸美の浜はすっかり無人になる。道からずっと離れた岩場に江島は立っていた。瞬きする。一瞬で目の前に現れた男は、赤色の翼で優雅に降り、しかし足は付けきらない。襟から伸びる顔を見るには、猫背の江島でも背を少し伸ばす必要がある。
江島が口角を引く。
「よお悪魔。黒永って言ったか?」
黒永は答えない。
「つれないな」
江島が指を鳴らす。黒永が目だけで周囲を追う。江島と黒永の周りに黒い幕が現れる。幕が濃くなる度に月明かりが薄まる。幕は真っ黒な四角い箱になる。
「オレはフェアだから教えてやる。この空間は中からも外からも気配がわからなくなる。気兼ねなく戦えるってわけだ。ルールは簡単。死んだら負け、逃げても負け、諦めても負け、相手の勝ち。お前が勝ったらお友達は返す。お前が負けたらお友達は殺す」
江島は足を広げると、体を深く落とし、構える。
「無駄な言葉はいらねぇな。いい殺し合いをしよう」
江島の姿が消える。黒永の側面に現れ、腕を刺す。黒永が背をそらして避ける、腕を見る。江島の腕はトゲになっていた。着地した江島はすぐ消え、現れ、刺す。現れた瞬間に黒永は避ける。
江島は推察する。江島が消えている間、黒永は江島を感知できない。江島は瞬間移動と同時に自身の体を幕で包み、黒永から察知されないようにしていた。現れた段階では攻撃を察知することしかできず反撃が間に合わない。それで避けるだけにとどめている。
江島は攻撃の間隔を早める。消え、現れ、刺し、消え、今度は遠くから片腕のムチを飛ばす。黒永をすり抜け地にたたきつけられたムチからトゲが生え、黒永は宙へとひるがえる。江島が別の腕を振り、細かいトゲを飛ばす。黒永は宙に手を突いて飛び上がる。
江島は腕のムチを巻き上げ、元の腕に戻す。黒永は避けるだけだが、その動きは攻撃の度に洗練されていった。江島の攻撃スピードや間隔の癖に慣れてきたのだ。飲み込みが早い、と江島は感じる。自分と似たタイプだと思った。理性ではなく本能で動いている。考えるより先に状況を察知して体が動いている。このままでは攻撃を当てられない。
なら情報量を増やせばいい、思い至り、ほくそ笑む。
江島は黒永の正面からムチを飛ばす。着地した黒永の頭上をムチが通る、地を見た黒永は吹き出してきたトゲを転がって避ける。起き上がった黒永の、首、腰、膝下が、ずれる。切断されていた。切れ目から黒い液体があふれ出す。黒永が転がった道筋を細い糸が横切っていた。糸はボロボロと崩れ落ちていく。
しめた、と江島が追撃する。大きく口を開け、咆哮する。黒永が指を振ると、目の前に黒い壁が現れる。咆哮を受けた壁はすぐさま崩れ去った。壁の向こうはもぬけの殻だ。黒永は天井に飛んでいた。体がサイコロステーキのように切れていたが、断面同士が粘液らしきものでくっついて、ブラブラと揺れている。飛んだ先でも糸に当たったようだ。
黒永の背後の壁から太いトゲが飛び出る。黒永が飛んだ先を追うように壁からトゲが生える。黒永は飛びながら、体の切れ目が徐々に埋まり、しかしまた見えない糸に引っかかって新しい断面ができる。
黒永の目の前に一本の糸が飛び出てきた。すかさずひるがえればその先で別の糸にかかり、切れる。飛んだ先に次々と糸が張り巡らされる。避ければ見えない糸にかかり、地上から江島のムチが飛んでくる。
江島は次々に能力を繰り出す。天井から雨が降り始めた。地上からは煙が吹き出し部屋を埋め尽くしていく。壁からは紐、糸、トゲの他、植物のツルや木なども生える。それらすべてを避けたかと思えば壁に空いた穴から砲撃され、地上から江島が咆哮する。
ムチを振りながら江島が叫ぶ。
「手も足もでねェか?! 手前も能力使えよ、それとも不器用すぎて使えねぇか?」
黒永は飛びながら、顎に手を当てて考える。度々見えない糸や雨に当たり、断面や穴ぼこを作りながら、ゆるい調子で話す。
「逃げ場作ってるのってわざと?」
「……は?」
「そんだけ能力すごいならさぁ、すぐ殺せばいいじゃん。殺せないの?」
江島が目を見開く。下まぶたをけいれんさせ、顔の血管が盛り上がる。
「ならお望み通り殺してやるよッ!!」
黒永の背後で重い音が鳴る。大きな金属を打ち合わせた音だ。振り返る。天井と床から四角い金属製の箱が飛び出し、プレス機のように紐や植物を押しつぶす。金属の箱は壁から順に部屋を埋めて背に迫る。箱から退こうと前を見えれば、江島がトゲの腕を携え迫ってくる。
黒永は力を抜く。まっすぐ立つと、手を顎に添える。鼻まで手のひらをめくり口端を引く。江島の体がこわばる。額まで手を上げると、そこに黒永の顔は無かった。代わりに、いかめしい顔つきの、坊主頭の男性の顔が現れた。額に大きな傷がある。江島心の兄、江島律だった。律は優しく微笑む。
江島の動きが一瞬止まる。その一瞬の間に律は忽然と消える。走っていた足がつんのめり、鼻先に金属の箱がかみつく寸前で、能力を解除し、箱が消える。
江島は首を落とし、ぬるりと振り返る。黒永は背後に回っていた。すでに体の傷は回復し、この空間に入ったときと同じ格好に戻っている。すました顔でたたずみ、ズボンのポケットに手を突っ込んでいる。
「手前……、」顔を振り上げる。「手前、手前っ、手前エッ!! よくも兄貴になりすましやがったなッ」
鬼の形相で吠える。
「クソ悪魔、手前だけはマジで許さねェ、ぶっ殺してやる!!」
駆けだした江島に、つまらなそうに黒永はつぶやく。
「練習台にちょうどいいかな」
ハッとした江島が斜め前へ転がる。江島がいた地点にトゲが生えていた。
背中に何か当たった。後ろ手に手を突くと、足を伸ばして飛び起きる。背中の布が破けていた。来た道に透明な糸が張っており、ポロポロと崩れる。赤く腫れた手から黒いチリが落ちる。
目をこらす。部屋中に張り巡らされた透明な糸に、壁から差す微妙な月明かりがかろうじて反射する。足下を見る。床に黒い土塊が散乱しており、土塊は江島が走った跡や転がった跡を示していた。
江島は察する。この空間全体に、黒永が自分の体で幕を張ったのだ。その幕から糸を出している。
黒永は攻撃の手を緩めない。様々な太さの紐を壁から生やし、走る江島を追う。目の前に生える赤や黒の紐に気を取られれば、すぐ透明な糸に足を取られる。江島は、黒永が張った幕の外側、自分が張った幕から紐を伸ばす。紐に足をかけて飛ぶ。次々と紐を出し、つかまったりジャンプ台にしたりしながら、黒永の攻撃を避け続ける。
攻撃は多彩に変化する。天井から雨が降り、床からは煙が立ちこめ、壁からはトゲや紐、植物が飛び出す。江島が紐に着地し、すぐ飛び上がらなければ、足下を小さなプレス機が押しつぶす。
最初は紐などに体をかすめ、切り傷から血を流していた。だが次第に傷無く動けるようになってくる。それが余計に江島を焦らせた。避けるのに慣れてきたわけではない、江島の動きに黒永が慣れてきたのだ。江島がちょうどよく避けられるように黒永は攻撃の頻度を調整し始めていた。逃げられるが、反撃はできない案配。江島の額に汗が流れる。
何より江島を焦らせていたのは、黒永の攻撃手法だ。黒永はほとんど能力を使っていない、と江島は直感する。黒永は自身の体から、実物に寄せた精巧な物体を生み出しているに過ぎない。黒永が使っている能力は、「安藤以外は破壊する」という、自動的に発動する本来の能力のみである。
ならば、と江島は決意する。この条件ならオレは勝たなければいけない。
江島が倒したいのは大口である。大口は自身本来のもの以外、悪魔の能力を使うことができない。調査の結果その可能性が非常に高かった。その代わり、物質を作るのが得意ということも判明している。今黒永と戦っている条件と同じだった。ここで勝てなければ、大口にも勝てない。
江島は攻撃を避けながら、右腕に力を込める。右腕が段々と黒く、硬く、大きくなる。黒永も気づいている。それでもやるしかなった。自身が込められる最大限の力を右腕に集め、黒永を討つ。黒永を殴れば右腕は壊れるだろう。それでもかまわなかった。他の体さえあれば自分は戦える。自分がいれば、みんなはまだ戦える。思いとともに思い出が脳を駆け巡る。
顔が思い浮かぶ。兄を亡くした江島が、久しぶりに外に出て会った人々。若い人も老いた人も、男も女も、様々な人がいた。彼らは優しく江島を迎え入れてくれた。彼ら自身も大事な人を失っていたのに、江島の悲しみに寄り添った。
彼らと話していて久しぶりに江島は笑えた。不器用にしか表情を動かせなかった。それでも気が楽になった。ふと横を見ると、藤沢がいた。江島を連れ出したのは元々藤沢だった。得意げに笑う藤沢に江島は口をへの字に曲げた。目をそらし、心の中で礼を言った。
彼らが二度と悪魔のせいで悲しまない世界にしたい。その決意に能力は応えた。ならば自分は戦い続けなければいけない、思いを込めて拳を握る。
江島が姿を消す。幕をまとい、黒永の背後に周り、拳を構える。肘を引き、幕を破りながら殴り込む。
黒永の動きがスローモーションに見えた。声をかけられたかのように振り返り、流し目で見つめる。人差し指を立てながら手を持ち上げる。軽く江島を差す。
指が拳を小突いた瞬間、腕がはじけ飛んだ。肘から先が無い。
時間感覚が覚める。右腕をかばって床に転がり落ちる。起き上がっても踏ん張る足に上手く力が入らない。何が起きたのか理解する。黒永は江島と同じことをしたのだ。攻撃を続ける間に人差し指に力を集め、強度を上げたのだ。いや、もしかしたら攻撃する直前だけだったかもしれない、と気がつく。
「もう終わりでいっか」
黒永が掲げた手で指を鳴らす。二人を囲んでいた空間が割れ、破片が落ちていく。
江島の膝が崩れる。違う、立て、戦え、心に言い聞かせても力は入らない。
江島に向けた黒永の手のひらからトゲが伸びる。
流星のような斬撃が横切る。
手が切り落とされる。
江島は息をのむ。
「やっぱり来ちゃった」
江島は周囲を見渡す。黒永と江島をマントを来た人間が取り囲んでいた。彼らは宙に浮かび、鎌を持っている。彼らの体や鎌はホログラムのように光り、全体が大きな輝きを放っていた。
とりわけ大きいマント男が、黒永と江島の間を遮るように降り立った。前髪を後ろに流し、濃い眉とりりしい目で、勇ましく黒永を見据える。京極だった。
「な、なんなんだよコイツら!」
慌てふためく江島とは対照的に、黒永はあきれ顔で首をもむ。
「悪魔同士の戦いにまで出張ってくるわけ?」
「彼は人間です」淡々と言う。
京極が手を掲げると、他のマント人間――死神たちが、江島を持ち上げる。
「連れて行ってください。治療後は警察へ」
「おいっ、んだよ離せよ」
江島が暴れるほど江島を囲う死神の数が増える。もみくちゃにされながら江島が叫ぶ。
「いいか黒永っ、安藤はもうこの街にはいねぇ、オレの仲間が別んとこに連れてった、せいぜい自分の弱さを嘆けよ!」
そう言い残して江島は連れ去られた。
浜に残ったのは黒永と京極、大勢の死神たちだ。黒永は手を再生させ、けだるく言う。
「で、キミたちはオレと戦うの?」
京極が構えていた鎌を岩に立てる。
「退散します。ここであなたと戦っても被害が増えるだけですから」
「ふ~ん、ケンメイだね」
黒永がのびをする。
「オレも今日は見逃してあげるよ。まだやることが残ってるから」
そう言って空へ飛び立ち、姿が消えた。京極は空を見上げていたが、やがて他の死神たちに指示を出し、自身も空へ飛び立った。
時間は少しさかのぼる。黒永たちが戦闘を始めた頃、安藤は部屋の中でうずくまっていた。舞うほこりをぼんやり眺めながら、最近読んだ本の内容を頭で暗唱する。気が緩むと不安や恐怖が頭をよぎるため、それを防ぐための念仏のようなものだった。
ドアの外から足音が鳴る。身構える。耳を立てる。足音は止まり、ドアが開いた。
「……藤沢さん?!」
驚く安藤を一瞥した後、藤沢は側にかがみ、縄をほどき始めた。
「怪我などは」
「あ、いえ……、ちょっといろんなとこが痛いですけど」
「犯人に何かされたのでしょうか」
「まあ殴られたり、色々と」
紐をほどき終える。安藤は藤沢の支えで立ち上がる。
「まずこの部屋を出ましょう。江島がいないうちに」
「なんで江島のことを」
「外で話します。こちらへ」
二人は近くの自動販売機へ向かう。藤沢がお茶の缶を購入し、安藤に渡す。
「すみません、お金は後で」
「……こんなときでもお金の心配なんですね」眉を下げる。
安藤が空笑いする。
「嫌なタイプのリアリストですよね。こんなときでも金勘定って」
「そうではありません。怖い思いをした後なのに、人を思いやるのだなと」
「意外と余裕があるのかもしれません」
缶のタブを引っ張る。上手く力が入らない。震えている。見かねた藤沢が静かにお茶を取り、タブを開けて渡す。
「すみません」
「なんなら飲ませましょうか」
「い、いいです、大丈夫です」
両手で缶を包み、ゆっくり喉に流し込む。喉から体へと暖かさが染み渡る。膝の力が抜けてへたり込む。今になって体の痛みが強くなる。藤沢が肩に手をかける。
「助かってよかったです。今はゆっくり休んでください」
安藤が目を絞ってうなずいた。
自動販売機近くの壁に背中を付けて安藤は寝転がる。藤沢から安藤の監禁場所調査について簡単に報告を受ける。黒永が江島と戦っていると聞き、缶を握り込む。
「彼を待ちましょう。重体であればすぐ病院につれいていくつもりだったのですが、緊急性の高い損傷は無さそうです。病院で彼が突然現れても困るでしょう」
「そうですね……」
診察中だろうとお構いなしに入ってくる黒永を、安藤は容易に想像できた。
しばらくして、空から黒永が飛んできた。安藤は起き上がろうとして腰が痛み、上半身を少し起こすにとどめる。
「正継! 無事だったんだね」
黒永は安藤を隅から隅まで見渡す。
「大丈夫? 怪我してない?」
「見える怪我はしてない」
「えっ、見えない怪我は?」
「わからん。これから病院で見てもらう」
「うぅ~、そっかぁ……」
黒永は肩を落とし、指を組む。
「ごめんね、オレがもっと色々気をつけてれば、正継を守れたのに」
「いいよ、お前のおかげで俺は助かったんだろ?」
「うん、オレのおかげ!」ぱっと顔が明るくなる。
「私もいます」
藤沢が二人の間に顔を割り込ませる。安藤は驚き、黒永は不満げに見る。
「藤沢もちょっとは活躍したよ、ちょっとね」
「ありがとうございます」安藤は頭を下げる。
「調査仲間を失っては痛手ですから」
「ふーん?」
「それで」藤沢が黒永を見る。「江島はどうなりました」
「逃げたよ」
「はぁ? 逃げた? 江島が?」
「そ。オレに畏れをなしたって感じ?」
「なんか違う気がする」
「殺してはないということですね」
「殺してはないよ。たぶん生きてるんじゃない?」
安藤はあっけにとられる。人を殺すなと言ったのは自分だが、黒永なら約束を破っても不思議ではなかった。黒永は安藤に対して律儀だが、安藤のためになると思えば独断で行動する。それに江島は悪魔疑惑がある。何か言い訳をして殺してもおかしくなかった。
「とりあえず、詳しい話は後にしましょう」
藤沢がスマホを取り出す。
「救急車を呼びます」黒永を見る。「貴方はテキトーなとこに隠れててください」
「雑! 扱いが!」
ムキになる黒永から藤沢はわざとらしくそっぽを向く。
いつの間に仲良くなったんだ、と安藤は思った。
安藤は入院することになった。腰の骨にヒビが入っていたらしい。むしろあれだけ攻撃を受けてヒビで済んだのか、と安藤は難しい気持ちになる。
入院中、何度か警察から事情聴取を受けた。江島は警察に捕まったらしい。江島にされたことなどを聞かれ、返答に困った。悪魔のことをどこまで話していいかわからなかったからだ。話したところで信用されるとも思えない。結局悪魔関係のことは伏せ、嘘にはならないよう事実だけを伝えた。
警察は頭をかいた。安藤は「色々混乱してたから正確ではないかも」と付け加えた。
入院から二日後、藤沢が病室を訪れた。起き上がろうとした安藤を藤沢は制止する。安藤はベッドの背もたれを起こし、藤沢に断りを入れてから、ベッドにもたれた。
「具合はどうですか」
「正直普段と変わらないですね。ちょっと腰が痛いくらいで」
「それくらいがいいかもしれませんね、ひどい怪我でもつらいですし」
「それは確かに」
安藤が苦笑し、藤沢もわずかに笑う。だがすぐ元の無表情に戻り、手帳を開く。
「今回の事件のことでいくつか共有したい情報があります」
安藤も真剣な顔つきになる。
安藤誘拐時の黒永との調査について詳細な報告を受ける。安藤も誘拐されるまでと、誘拐された後のやりとりを報告する。誘拐事件解決後の動向を藤沢が語る。
「江島ですが、釈放されることになりそうです。状況から彼の犯行は疑わしいが、決定的な証拠に欠けると」
「まあそうですよね、悪魔のことは警察には調べられない。悪殺事件だって未だに解明できてませんし」
「安藤さんが望めば、警察は周辺の見回りなどをしてくれるかもしれません。ただし、能力を使われたら意味が無い」
「江島の目的を考えると、間違いなくまた俺を狙いますよね」
「残念ながら。ただ、無計画に襲ってくるとはあまり考えられません」
「……そうですかね? 俺が入院して動けない間に襲ってくるとかないですか」
「可能性としてはあります。ただ今回のことで、江島は黒永さんへの警戒を強めたとも考えられます。彼に話を聞いたところ、江島は非常にこっぴどく負けたようで。祭りの悪魔の能力をはじめとした手の内を明かしていることも考えると、彼とはなるべく再戦したくないのではないでしょうか」
安藤は口を緩めてうなずく。
「こうとも考えられます」藤沢が続ける。「悪魔は能力を使うのに、魂と不浄の両方が必要とのこと。江島は相当魂と不浄を消費したようです。魂は不可逆的で一度消費すれば戻らない。不浄は再度ためられるそうですが、時間がかかるようです。江島の本命が大口であることを考えると、今は身を潜めて、戦いのため力をためるとも考えられます」
「具体的な期間とかはわかるんでしょうか」
「わかりません。黒永さんいわく、どれだけ不浄が貯まれば十分かは悪魔によると」
そこまで言って、藤沢は言葉を改める。
「江島は人間でしたね」
安藤たちの間で「江島は人間である」という認識ができていた。黒永は、死神の言葉からそう断定した。安藤は黒永からこっそり教わっていた。
藤沢は別の情報から推測した。黒永が江島を攻撃したとき、赤い血を流したというのだ。悪魔は赤い血ではなく、血に似た黒い液体を傷から流す。こだわりのある悪魔はわざわざ傷ついた箇所から赤い血を流すらしいが、それでも黒い液体が混ざる。江島から黒い液体は流れなかった。
安藤は腕を組む。
「懸念点は、江島に仲間がいることでしょうか」
「そうですね、江島が戦闘不能の間に、仲間が安藤さんを連れ去るとも考えられます」
「仲間が何人いるかもわからない」額を押さえる。「リーダー格がいるっぽくはあるんですけど」
「推理するには情報が少ないですね」
藤沢が提案する。
「情報収集のため、再度事件について調査するというのはどうでしょう。安藤さんはまず身心を休めて、その間は私が調査をします。安藤さんが回復したら、合同調査をする。いかがでしょう」
安藤の顔が曇る。
「あの、協力してくれるのはうれしいんですけど。藤沢さんはいいんですか」
「何がでしょう」
安藤はためらいつつ、言葉をこぼす。
「俺に協力してたら、藤沢さんも俺の仲間と見なされて、襲われるかも」
藤沢は少し眉尻を下げる。
「確かに私が襲われる可能性もあります。ただもとより悪魔事件を取材する身、危険には慣れていますし、危険性を承知で取り組んでおります」
藤沢の眉が静かに釣る。
「私の心配より、安藤さん自身の心配をしてほしいです。貴方が襲われる可能性が最も高く、いつ襲われるかもわからない。そんな不安と戦っているのでしょう。もっと自分を大事にしてください。安藤さんは人間なんですから」
安藤は布団を握り込み、押し黙る。二人でうつむく。
「本当は」藤沢がこぼす。「今この場で事件の話をするのも良くないと思ってます。怖い思いをした後に怖い出来事を思い出すことが、どれだけ苦痛か。……私は」
藤沢が顔を上げる。
「私の身勝手に貴方を巻き込んでいます。それが一番正しいと思っているからです。申し訳ないと思っています。でももし、貴方がまだ戦いたいと思ってくれているなら、私の身勝手に付き合ってほしいです」
安藤は藤沢を横目に見る。うろたえて、視線が泳ぎ、小さくうなずく。
藤沢の語気が強まる。
「巻き込んだなんて思わないでください。巻き込んだのは私です」
藤沢は前髪を耳にかけ口を拭う。元の無表情に戻る。いつもの抑揚の無い口調になる。
「今後の予定を立てましょう。退院後に一度連絡いたします」
二人は今後の予定をすりあわせる。事務的な会話が終わり、藤沢が席を立つ。深くお辞儀をして病室を去る藤沢をベッドから見送る。
心配するつもりが、心配をかけさせてしまった、と安藤は思った。
京極がお見舞いに来た。部屋に入ってきたマント姿の大男を相部屋の患者たちが一瞥する。しかしすぐ他の物に目が行き、興味がある人間も物珍しそうに見るだけだった。
京極がカーテンを閉める。
「お久しぶりです、お加減はいかがでしょうか」
「結構元気です。来週には退院できると思います」
「それはよかった。これはお土産のクッキーです」
京極が紙袋を掲げる。安藤は驚く。
京極が紙袋から四角い白い箱を取り出す。箱が広がり、安藤たちを包む。
「結界を張り終えました」
「あ、クッキーじゃなかったんですね」
「いえ、クッキーですよ」
紙袋からクッキーを取り出す。デパートで売っていそうなおしゃれな箱だった。
「意外かもしれませんが、人間に擬態するためであれば、購入は許可されています。どうぞ召し上がってください」
安藤はテーブルに箱を置き、開ける。色とりどりの個包装が整列している。一つ手に取ると、京極の視線がそこに集中していることに気がついた。口元に持って行けば京極の目線も釣られる。
「京極さんもよければどうぞ」
京極がハッとし、両手を振る。
「すみません、欲望が態度に出てしまいました。これはお見舞いの品なので、安藤様がすべて召し上がってください」
目をぎゅっとつむり、顔をそらす。
「えーと、最近誰かと一緒に物食べるってしてないんですよね。たまには誰かと食べたいなー、なんて」
京極が恐る恐る目を開ける。クッキーをじっと見つめると、両手を合わせた。
「ではお言葉に甘えて、いただきます」
クッキーを一袋取り出し、食べる。緊張していた顔がほどける。
「至福です。実はこのクッキー、前から気になっていたのです。製法の特殊さから一日限定百個販売で、なかなか食べる機会が無く。とてもおいしいです」
「それはよかったです」
笑いかけた安藤は、神妙な顔になると、話を切り出す。
「いくつか質問したいことがあるんですけど」
「どうぞ」クッキーを置いて答える。
「大口夢成、ってご存じですか」
「ええ」
安藤は拍子抜けする。
「聞いといてなんなんですけど、答えてくれないかと思ってました。黒永を殺すかどうかに関係ないから」
「安藤様は大口様が何者であるかご存じのようなので、隠す意味は無いと判断しました」
「やっぱり悪魔なんですね」
京極がうなずく。
「嫌な聞き方になるんですけど、京極さんたちは大口を殺さないんですか」
「黒永様と事情は同じです。彼と戦闘を行えば被害規模は甚大になる。黒永様と異なることとして、大口様と戦っても我々は勝てない、という点が挙げられます」
「そんなに強いんですか」
「ここ一世紀では一番強いと思いますよ」
安藤は純粋に驚く。黒永より強い悪魔がいることが信じられなかった。自分の父親への印象にも合わなかった。
「黒永と同じってことは、大口も、誰かに介錯を頼んでいるんですか」
京極は少し黙る。
「申し上げられません。すみません」
「いえ、大丈夫です」
「ですが、我々の使命は悪魔を討伐し、人々の安全を守ることです。大口様も例外ではないとお考えください」
「わかりました。別の質問もしていいですか?」
「どうぞ」
「黒永がこないだ、『死神にバトルのジャマされた』って怒ってたんです。死神ってそういう、悪魔の妨害? 対策? みたいなこともするんですか」
「はい。先ほど申した通り、死神の使命は悪魔を討伐し、人々の安全を守ること。すなわち悪魔から人間を守ることと同義ですね。ですから人間が悪魔に襲われていれば、人間を保護し、可能なら悪魔を討伐します」
「黒永が戦ってたのは人間だったんですか」
少し間が空いて、
「人間です」
と答える。
「人間の中にも悪魔の能力に目覚める者がいます。ただ肉体は人間のままですから、我々としては人間という認識です。たとえ悪魔のような強さを手に入れたとしても」
安藤が眉間にしわを寄せたのを見て、京極が頭を下げる。
「すみません」
「えっ、なんで京極さんが謝るんですか」
「安藤様に不安を抱かせてしまいました」
京極が顔を上げる。
「江島心様のことは我々も存じております。危険人物として監視しておりますので」
「そうだったんですか」
「順を追って事情を説明します。まず我々にとって、安藤様は悪魔討伐のための最重要人物です。ですから安藤様の知らないところで護衛をしており、危機が迫れば相応の対処をいたします。
ただ我々の原則として人間同士の争いには手が出せません。人ならざる者が介入すると人間の歴史をねじ曲げる畏れがあるためです。
できる限り安藤様を守ることはお約束いたします。ただ、正直に申し上げます。安藤様を守ることで得る利益と、人間の世界に介入するリスクを比較して、釣り合わない場合、我々は貴方を守らないという選択も取り得ます」
京極の冷静な口調が冷たくも聞こえる。本人は中立を意識しているのだろう、と安藤は思う。そういう京極だからこそ信頼できたし、言葉の重みも理解した。
京極はもう一度頭を下げる。
「我々の方がご依頼する立場でありながら、身勝手で申し訳ありません」
「いえ、顔上げてください」
顔を上げた京極は同じ調子で言う。
「他に質問などはありますか」
「あっ、無いです、ていうか、しようと思ってたのを答えてもらっちゃったので」
死神は安藤を守るつもりがあるか、ということを質問するつもりだった。それがあるか無いかで今後の方針が変わるからである。
京極は気が緩んだのか、クッキーを食べながら顔をほころばせる。クッキーを食べながら安藤は考える。
江島がどれだけ死神を意識するか考える。黒永の話から、江島は死神に詳しくないと察した。大口をはじめとする悪魔との戦いでは、死神に妨害されないことを意識するかもしれない。だが大口殺害計画の抑止力になるとも思えない。
京極たちがどこまで安藤を守るのかが不明である以上、頼るには心許なかった。江島対策には使えないだろうと判断する。もし江島が安藤を殺そうとしたとき、運が良ければ助けてもらえるかどうかだと思った。
安藤はクッキーを食べながら聞く。
「もう一個、質問思い出したんですけど。――もし黒永を殺すって決めたら、どうお伝えすればいいですか」
京極は口からクッキーを離す。
「……次回の定例交渉会でお伝えくだされば」
京極はクッキーを持ったまま、机に手を置く。
「何か心境の変化などあったのでしょうか」
「色々と。いや、まだ決めてはないです」手を振る。
「時間はまだあります。後悔の無いようお考えください」
澄んだ瞳に見つめられ、安藤は顔をそらし、クッキーを食べる。クッキーを食べるのにうつむいた、と思われたい自分に、後ろめたさを覚えた。
退院した安藤は家に戻り、仕事を再開した。家周辺は警察が見回りをしており、不審人物などは目撃していないという。江島が力をためている説を正しいとした場合、江島が能力で警察を欺き誘拐するとは、安藤にとって考えにくかった。
藤沢から一度連絡が来たが、調査再開はまだ難しいと答えた。十二月以降にもう一度連絡してほしいと伝えた。
退院後はじめての休日になる。朝食を食べ終えると、黒永が家に来た。
「正継病院でずっと本読んでるんだもん! ちょ~暇だった~」
部屋にぷかぷか浮かびながら頬を膨らませる。確かに安藤は病室で読書をしていた。ただ目的は、黒永に話しかけられないようにして、考え事をするためだった。本はページをめくっていただけで、ほとんど読んでいない。
「なあ黒永。ちょっと話聞いてくれないか」
机に手を組む安藤を見て、黒永は安藤の正面に正座する。
「真面目なお話?」
「真面目なお話だ。今から話すことはお前を驚かせると思うし、嫌な思いをさせると思う。だけど俺がいいというまで黙って聞いてくれ」
「うん」
安藤は黒永の眉間を見る。
「お前が悪魔になって帰ってくるより前、俺は死神から相談された。黒永が悪魔になって俺のところに向かっている。悪魔は人を傷つける。だけど死神たちでは殺せない。だから、俺に殺してほしいって」
黒永のまぶたが少し閉じて、目に影が落ちる。
「ずっと考えてた、黒永を殺すべきかどうか。でも決心した。俺はお前を殺そうと思う。
俺はお前に生きていてほしい。でもお前が生きることで、誰かが傷ついて、お前が責められて、殺されたりしたら、俺はまた後悔する。
黒永。死ぬなら俺に殺されてくれないか」
安藤は手を組み直す。
「俺が言いたいことは言った。お前はどう思う」
黒永は机に乗せた両手を固く握りしめていた。口を結び、鋭い視線で安藤の目を捉える。
「納得できない」
いつもは緩んでいる声が堅くなり、静かにかみつく。
「そんなの正継らしくない」
安藤は困惑する。殺されたくないと言うとは思っていたが、理由が予想外だった。
「俺らしくないってなんだよ。お前を殺すのに関係ないだろ」
「関係ある。オレが納得できない」
黒永は怒気を声に含ませてまくしたてる。
「オレは、正継が死んでほしいと言うなら、死ぬよ。本当は嫌だけど、ずっと守っていたいけど、正継が本当に願うなら、オレはかなえるよ。だってそれがオレの願いだもん。でも正継はぜんぜんオレに死んでほしくないじゃん」
「そうだけど」身を乗り出して反論する。「しょうがないだろ。誰かが殺さなきゃいけないなら俺じゃなきゃ嫌なんだよ。それが俺の願いだろ」
「違う」
黒永は首を振る。
「そんなの正継の願いなんかじゃない。正継は今、誰かのためにオレを殺そうとしてる。誰かが傷つくとか、悲しむとか。正継が一番下手くそなこと考えてる。正継は誰かの感情で決めることに納得できるヤツじゃない。自分の中の正しさで決めないと気が済まないんだよ。正継は自分の決めたことに何も納得してない」
「わかったようなこと言いやがって」食いしばる、抑えていた感情がはち切れる。「お前に何がわかんだよ、いつも俺をわかったようなことばっかり、馬鹿のくせに」
「わかるよ、バカだけど、正継のことだけわかるバカだ。当てようか。自分が悪魔だから許されないと思ってるんだ。幸せになっちゃいけない、そんなの人から恨まれる、暴かれる、たたかれる。自分さえ不幸になればいいって全部捨てようとする。そんなの」鼻をすする、涙ぐむ。「そんなのオレが許すわけないじゃん、わかれよ、そっちこそわかれよ、正継のバカ!」
「黙って聞いてりゃ」机をたたき立ち上がる。黒永を見下す。「お前にだけは言われたくねぇよ、俺がいないと何にもできねぇ馬鹿が!」
黒永も立ち上がり、安藤を見下す。
「キミにだって言われたくないね、オレがいないと自分のことすらわからないバカ!」
顔を突き合わせていがみ合う。むっとした黒永は浮き上がり、窓を割って飛び立った。
「あっ、お前!」
窓の外で振り返った黒永は、舌を出してあっかんべをする。そのまま消え去った。
安藤は振り上げた拳を震わせ、「クソッ」と叫んで振り下ろした。
むしゃくしゃした気持ちのまま割れたガラス片を掃除する。膝を突く。大小様々なガラス片が窓周辺に散らばっている。冬の空気を含んだ風が首に差し、細かいガラス片を部屋の中へ連れて行く。早く片付けなきゃと思って、頭が感情から思考へ戻っていく。
「何やってんだろ俺……」
ガラス片を片付け終え、机の前に座る。机に両肘を突き、額に両手を当てる。
あんなこと言うつもりじゃなかった、と内省する。黒永が怒ることは予想できていた。だから説得方法も事前に考えていて、シミュレートもしていた。
一番伝えたかったのは、黒永を大事に思うからこそ殺すことだった。殺すことは身勝手だとわかった上で、もう二度と人間のときのような死に方をしないよう、自分で始末を付けたかった。殺すなら自分がいいというのは本心だった。
それでも、と考える。黒永に言われたことを思い出す。「自分の決めたことに何も納得してない」「自分さえ不幸になればいいと思って全部捨てようとする」、言葉一つ一つが自分の心に当てはまった。
本当は納得していないのだろうか、と悩む。違う、と脳は言った。入院中ずっと考えていたからだ。考え抜いて、これが正しいと思って、たどり着いた答えだ。
頭の中で黒永が言う。
「誰かのためにオレを殺そうとしてる」
手を握る。図星だった。江島がいつ安藤を殺すかわからない。もし安藤が死ねば、黒永は怒り狂い、人々を殺して回るに違いないと思っていた。それを防ぐために、黒永が死んだ後で自分が死のうと思っていた。それでなくても、黒永はすでに何人もの人間を食べている。これ以上黒永のせいで死ぬ人が出ないように、黒永の行いで誰かを怒らせないように、悲しませないように、自分が不幸になるように。全部誰かのための正しさで、誰かにとっての正しさだった。
「それなら」目が潤む。か細い悲鳴が鳴る。「俺の正しさってなんなんだよ」
誰も答えない。本ばかりが並ぶ部屋に、大きな窓から日が差した。
藤沢はある倉庫を訪れた。一番大きな部屋に人が集まる。
まっすぐ立った藤沢を人々が囲う。老若男女、二十数名の彼らのほとんどが、灰色の肌を持つ。藤沢の隣に江島が立つ。フードを取っていた。
集まった人の顔を眺めてから、藤沢が演説を始める。力強い声だった。
「集まってくれてありがとう。今日という日を誰一人欠けることなく迎えられたこと、喜ばしく思う。私たちは誓い合った。人の命を守り、悪魔を根絶やしにすること。我々のまいた種が今花を付けようとしている」
藤沢は一枚の写真を取り出す。安藤に似たさえない顔の大男、大口夢成だ。人々の顔が険しくなる。
「この男は我々の大事な人を食い殺した悪魔だ。ある者は親を、ある者は兄弟を、ある者は恋人を、この男に奪われた。奪われた者のほとんどが、この男のせいと知らぬまま、無残な死を嘆き、自分を責めることしかできない。
だがこの男はどうだ。人間が取り決めた法をすり抜け、生き延び、今日もこの男の家族はのうのうと暮らしている。こんな理不尽なことがあっていいだろうか。
我々はこの男の正体を知っている。姑息にも隠蔽し、誰も暴くことができなかった所業を我々だけが見破った。ならば我々の責務は一つ。法に代わり、人に代わり、神に代わり、この男を断罪することだ」
藤沢は二枚の写真を取り出す。一枚は安藤、もう一枚は女性の写真だ。後ろ髪を一本にまとめた、りんとした童顔の女性である。
「私は悪魔の家族の居所を突き止めた。我々は悪魔の家族を贄とし、この男を呼び寄せ、一網打尽にする」
人々が、おお、と声を上げる。藤沢が写真を落とし、踏みつける。
「恐れることはない。今日まで我々は牙を研ぎ続け、悪魔をほふる力を手に入れた。今こそ力を発揮するとき。誰も殺せなかった大口の悪魔を殺し、我々の夢をかなえよう!」
雄叫びが上がる。藤沢が拳を振り上げれば、人々も拳を振り上げる。藤沢が声を上げれば、人々も声を上げる。人々から発せられた熱気が充満していた。
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7