とな天短編小説『天使がいなければ』

2024年4月1日

目次
  1. 注意書き
  2. 本編

注意書き

本編

九十九くとうひさしは大きくあくびする。褐色の腕を天井に振り上げて伸びをすると爪先が立つ。長い黒髪に手を突っ込んで頭をかく。西勇人にしゆうとは違和感を覚えた。

「九十、背が伸びたか?」

九十が西を見上げる。背も横幅もある西に対し、九十は小柄だ。だが年頃の青年らしく体に厚みがあり、Tシャツの上からでもがっしりしているのがわかる。九十は下に向けた掌を頭上に掲げて、その高さのまま西の方に滑らせる。掌の先には鼻があった。

「こんなものじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」

九十が無邪気に笑う。

「そのうち勇人を追い抜くよ」

そう言って軽い足取りで階段を降りていく。

やっぱり変だ、と西は思う。昨日までの九十は、西の頭一つ分背が低く、中性的な体型だった。

何より九十は西の名前を言えないはずだった。九十は一部を除いて他人の名前を覚えられない。名前を覚えられなくする処置を病院で受けたと西は聞いている。だから西のことをいつも違う名字で呼び、正しい名前を呼ばなければいけないときは苦労していた。

西は朝の習慣を済ませた後、居間に入り食卓につく。隣で九十がテレビを見ている。身を乗り出すように頬杖を突き、あぐらをかいていた。

十悦子よこたてえつこが居間に入ってくる。整ったメイクをした悦子は、いつも通り壮年らしからぬみずみずしさで笑う。

「おはよう二人とも」
「おはようございます」
「おはよ」
「今ごはん用意してるから、ちょっと待ってね」
「はーい」九十がテレビを見たまま返事をする。

数分後、悦子が食卓に朝食を置き、お盆を傍らに置いて座る。

「いただきます」三人揃って朝食を食べ始める。

悦子が話を切り出す。

「ひさし、お父さんとお母さんからはがきが届いてたよ」
「ほんと!」

九十はパッと顔を明るくし、箸を置いて廊下へと駆ける。「後にしなさい」と声を張る悦子に見向きもせず席に戻り、箸で何かを口に入れながらはがきを読む。

西がはがきをのぞき込み、九十がはがきを持つ手を下げる。

「勇人見たことあったっけ、俺の両親」

はがきの全面に写真が印刷されている。どこか異国の風景を背に男女がポーズをとっている。男女には九十の面影がある。

「外国でボランティア? しててさ。ちょっとだけ帰ってこれるって」

九十の言うとおり、はがきには「そっちに帰れそう」と書いてある。

「帰ってきたら何して驚かそうかなあ」
「成長したひさしを見せるのが一番驚くわよ」
「それもそっか!」

九十が楽しげにパンを頬張る。九十の両親はすでに死んでいるはずだった。

朝食後、西は九十の動きを観察する。

九十はいつも食後に薬を飲む。数が多く、九十自身何の薬を飲んでいるか知らないことすらある。今日の九十は食後も食卓に残りテレビを見ている。

九十が薬を飲むのは、九十が「天使」だからだ。天使は死を最善と考え、他者を殺そうとし、自身も希死念慮を抱き死のうとする存在である。天使はほとんど死体に近い性質だと、西は九十から聞いたことがあった。天使の性質を抑え、人間として生きられるように、薬を飲んでいるらしい。

「なあ、天使って知ってるか」

九十が振り向く。

「輪っかがあって、翼が生えてるやつ?」
「んー」

西は食卓に座りながら、頭の中で言葉を選ぶ。

「輪っかは無くて、腕がいっぱい生えてるやつ」

九十は困った顔をする。

「こないだ観た映画でさ、そういう天使が出てきたんだ」西はとっさに付け足す。
「ホラー映画?」
「そうかも」
「かもって。腕がいっぱい生えるなんてホラーでしょ」
「ジャンル見ないまま映画観ちゃってさ」
「勇人らしいね」

クックッと笑う九十の声はいつもより低く感じられた。寝起きの声じゃなかったんだ、と西は思う。

西は二階に上がり、自室のパソコンで天使を検索する。検索結果には、神の使いとしての天使が多く表示される。腕が大量に生えて死ぬ天使の話はどこにも出てこない。

ここは天使がいない世界なんだろうか、おれは別世界に転移したのか、と西は考える。ふと思い立ち、片耳に手を当てて小さく呟いた。

「神様」

返事は無い。もう一度呟いても同じだ。

西は異世界転生者である。元の世界で事故に遭ったがそれは神の不手際で、そのお詫びとして九十がいる世界に転生してきた。

神は西の生活をサポートしており、相談すれば大抵応えてくれる。もし今回のことが「別世界への転移」なら、神は知っているのかもしれない。そう思って問いかけたが応答が無い。

忙しいのかもしれない、と思う。現状今の生活に問題は無さそうだ。別世界への転移でも、そうでなくても、後でなんとかしてもらえばいいだろう。

西は寝間着を着替えるためクローゼットを開けた。クローゼットにはいつもの服が入っていた。

インターホンが鳴ったのは昼頃のことである。玄関へと駆ける九十に西はゆっくりついていく。玄関には、はしゃぐ九十と、二人の青年の姿があった。

「黒井、令城、久しぶり」

黒井弥吉くろいよしきちは玄関を軽くくぐるように入ってくる。いつものツーブロックだが髪は黒い。耳にはピアスもピアスの穴も無い。しわの無いシャツにすらっとしたパンツを合わせている。

西は令城談れいじょうだんと目線が合う。癖がかかった髪はいつもと同じだが、前髪はまぶた辺りで切られていた。Tシャツを中心にモノトーンのカジュアルコーデでまとめている。

「久しぶりって」令城が呆れる。「ゆうて二週間くらいじゃんか」
「長い休みがあると、しばらく会っていない気になるよね」黒井が西に優しく笑いかける。

「今日二人は、何の用で来たんだっけか」

黒井と令城がきょとんとする。九十が子どもっぽく怒る。

「もう、前から約束してたでしょ」
「ごめん、なんか今日寝ぼけてて」
「いつもボーッとしてるくせに」
「確かに」令城はニヤリとする。
「そんなことはないだろ」黒井が言う。

九十が自信ありげに腰に手を当てる。

「今日は四月一日だから、みんなでエイプリルフールっぽいお菓子を作るんだよ」

談笑しながら、九十は黒井と令城を居間に案内する。九十がお茶を運び三人に振る舞う。

九十が時計を見る。

「金星くんはまだかな」
「キンセイは時間にルーズだからなあ。一応僕から連絡しておこうか」

黒井がスマホでメッセージを送る。

「既読にならないな」
「寝てんじゃね?」
「何かあったのかな」
「わからないな」黒井が首を振る。
「とりあえず金兄待つ?」

四人は令城の提案に同意し、しばらく雑談することになった。

「ねぇ、二人はこの春どこかへ行った?」
「僕は特には。塾か地域活動くらいかな」
「家族とどこかに行ったりしないの?」

黒井は苦笑する。

「うちは父が厳格でね、あまり遊びに行く発想が無いんだよ」
「うらやましいねェ」

令城がため息を吐く。

「うちはうるさかったよ、外に出ろって。家で機械いじりの方が楽しいのにね」
「俺も談くんはもっと外に出た方がいいと思う」
「ひーくんはボクに優しくしてよ~」

わざとらしく泣きつく令城に、九十はわざとらしくそっぽを向く。

「黒井~」
「日に当たらないと病気になるぞ」
「西クン~」
「うん、外に出な」
「みんなボクに厳しい~っ」

どっと場が笑う。

四人のスマホから通知音が鳴る。九十と黒井がスマホを見る。

「金星くんからだ。なんか体調悪いんだって」
「珍しいね」
「遅れてくるらしい。先に始めてていいと言ってる」
「大丈夫かな金星くん」

九十の肩を令城が軽く叩く。

「金兄ならダイジョーブ、丈夫だけが取り柄だし」
「だけってことはないんじゃ……?」
「いや、丈夫だけだな」
「黒井まで」
「だからキンセイは大丈夫だよ。僕らが楽しんでればつられて元気になってるさ」
「お菓子食べたら治ったりしてね」

調子よく言う二人に、九十の顔が明るくなる。

「そうだね。四人で先に楽しんじゃおう!」

四人で台所に向かい、料理を始める。

材料を混ぜ合わせているとき、インターホンが鳴った。西が玄関に向かう。

「利田先輩、お久しぶりです」

玄関と同じくらいの身長から見下ろされ、西は少し圧倒される。黒井よりも見下ろされることに慣れなかった。

利田金星りたきんせいは普段通り、Tシャツにダメージジーンズを着ていた。学ランを羽織っていないことと、付けているアクセサリーの種類、疲れたような表情がいつもと違っている。

「体調はいいんですか」
「正直よくねぇ。だが確かめたいことがあってな」
「確かめたいこと?」
「西、少し話せるか。二人だけでだ」

西は不思議に思いつつ、一度台所に戻り、三人に断りを入れてから玄関に戻る。

玄関を出て家の裏に向かう。台所から遠い所だ。利田は壁に寄りかかる。

「なあ。今日、何かおかしいと思わねぇか」

思わぬ質問に驚く。

「実は思ってます」
「具体的には」
「一番は天使がいないことですね。天使ってわかります?」

利田は少し考える。

「輪っかと翼がある奴、じゃあねぇんだよな」
「そうです」
「他には何かあるか」
「九十の背が高かったり、九十が天使じゃなかったり、黒井とか令城の見た目も違うし、なんか性格も違いますね。あと黒井と令城が利田先輩に優しい」

利田がむずがゆそうな顔をする。しかし考え込んで、語り出す。

「オレは今この世界に強烈な違和感を持ってる。世界の全部が嘘に見えんだ」
「嘘?」
「理屈はわからねぇ。オレは確かに、人より嘘を見分けるのが得意だ。だが嘘が見える能力ってのは持ってない。持ってねぇはずなのに、『嘘を見る能力を持っていない』という認識がまず嘘に見える」

それに、と利田。

「西、手前は天使がいないと言ったが、天使がいないと考えると途端に嘘が濃くなる」

利田は苦しげに目をつむり眉間を押さえる。

「自分でも何言ってるかわかんねぇ。ずっと頭痛ぇし気持ちわりぃ。それで朝から潰れてたんだ」

西は難しい顔で腕を組む。

「おれ、この世界が変なのは、別世界に転移したからだって思ってました」
「転移?」利田は眉間を押さえたまま西を見る。
「おれって転生者で、えと、転生者なんですけど」
「それは知ってる」
「よかった。そんで、世界を移動するようなことが、まああったりするのかなって、のんきに思っちゃってて。でも先輩見て、そうじゃないのかもって気づきました」

西はふと思いつく。

「神様なら何か知ってるかも」
「カミサマ?」利田が思わず眉間から手を離す。
「おれを転生させてくれた神様です。朝一回聞いてみたんですけど、返事が無くて。ちょっともう一回聞いてみます」
「そんな気軽に聞けるもんなのか」
「意外と聞けます。聞き過ぎると怒られますけど。ちょっと聞いてきますね」
「ここでは聞けないのか」
「あー……。聞けるんですけど」

西は頭をかく。

「神様の声っておれしか聞こえなくて、おれだけ喋ってると、めちゃくちゃ独り言言ってる人になちゃって。さすがに恥ずかしくて人前ではやらないんです」
「手前にも恥ずかしいって気持ちあるんだな」
「おれのことなんだと思ってるんです?」
「世界がへんてこでものんきでいる奴」
「……否定はできませんけど」

西は利田から離れ、庭の隅でボソボソと話し出す。少しして利田の元へ戻る。

「なんか神様の世界で問題が起こったらしくて、この世界も他の世界も不具合が起きてるみたいです。今日は一日対応に追われてて、明日までこのままらしいです」
「明日までか……」
「耐えれそうですか?」
「やるしかねぇだろ」

利田は深くため息を吐き、握りこぶしを作って、指の関節でこめかみをぎゅっと押しつけ、パッと離す。

「とりあえずツクモたちと合流するか」

台所に向かう途中、居間が賑やかなことに西は気がつく。九十たちはは居間にホットプレートを出し、そこで材料を焼いていた。

「あ、金星くん!」
「ようツクモ。楽しそうだな」

利田はニッと笑う。疲れている様子は見えなかった。

「金兄遅いよ、もう焼き始めちゃったよ?」令城はボウルを手に取る。「金兄用のボウル使っちゃうとこだったんだから」
「体調はもういいのか?」

心配げな黒井に利田は少し動揺して、「大丈夫だ」目を細めて優しく言う。切り替えるようにパッと明るくなる。

「よっしゃ、オレもいっぱい焼いてやるぜ」

腕まくりをする利田の腕を黒井が掴む。

「まず手を洗ってこい」

バツが悪そうに廊下へ戻る利田を見て四人とも笑った。

五時を過ぎ、お菓子作りで盛り上がった後、解散となる。手を振る黒井と令城を見送って、西と利田はもう一度家の裏に集まった。

「なんか久々に楽しかった気がするよ」

利田は手に持った紙袋を眺める。紙袋には、今日五人で作った「お好み焼き風ホットケーキ」のあまりが入っている。

「おれもです。ていうか、初めてかもです。五人で集まって何かすること今までなかったから」

「……お前には記憶が無いのか」利田が西を見る。
「先輩にはあるんですか?」
「ああ、思い出そうとすると嘘が濃くなるが。お前だけ認識が正しいのは何か理由があんのかな」
「神様いわく、この世界の仕組みを使って認識の上書きがされたから、らしいです。おれはこの世界の能力とか、天使の影響とか効かないので」

ふーん、と利田は首を傾げる。

「お前は辛くなかったのか。一人だけ違う認識で」
「どうでしょう。疎外感? みたいなのはあったかもです。一人だけ別の世界にいるみたいな、知ってる人なのに知らない人と話してるみたいな。でもなんか、今の世界の人が不思議と幸せそうで、ならまあいいかなと思いました」
「ホント、のんきっつーか、図太いっつーか」

呆れる利田だが、

「でもお前のすげえとこだな」

目を伏せて低く呟く。オレは、と続ける。

「オレは正直辛い。物理的にもそうだし、自分だけおかしくなった気がして、どうしようもなく孤独だった。……だが。
今日ツクモや、黒吉、レイに会って思ったんだ。この世界のままの方がいいんじゃねぇかって」
「えっ」

利田は袋を持った手を握りしめる。

「天使がいる世界は、ツクモも、黒吉も、レイも、もっと辛かったような気がすんだ。オレたちはもっと仲が悪くて、助けてやりたいのに助けてやれなくて、誰も彼もがもがいていた。
それにオレは、今日、生きている親父を見ちまった」

西は息を呑む。利田の父は黒井に殺されたと聞いている。

「親父も生きてて、お袋も、病人でこそあるが動けるくらいには元気だった」

利田は西を真っ直ぐ見る。切羽詰まった視線から目を離せない。

「天使がいない世界の方がみんな幸せなんじゃねぇか。天使がいる世界に戻すのは、戻ることを望むのは、間違いなんじゃねぇか」

視線を捉えたまま西は言葉を反芻する。繰り返した先で一つの思いが浮かぶ。

「利田先輩が言うとおり、天使がいない世界のままにするのも、正しいことだと思います。
でも、天使がいない世界で、利田先輩が苦しんでいるなら。それは『みんな』が幸せな世界じゃないと思います。
だから、世界を元に戻すことも正しいです」

利田の瞳が揺れる。うつむいてから、視線はもう一度、柔らかく西を捉える。

「お前にそう言われると、ホントにそうな気がするな」

利田は目を拭うように押さえて、吹っ切るように見上げる。

「泣き言言っちまった、オレらしくねぇ」

口角を引いて西に笑いかける。

「だが、聞いてくれてサンキューな」
「おれでよければいつでも聞きます」
「そうだな、手前の図太さ、頼りにしてるぜ」

利田は拳を作り西の胸を小突いた。

利田を見送ってから西は家に入る。戸を閉めようとして、九十が入ってきた。

「九十、外にいたのか」
「うん」

九十は手を背中に回し下を向いている。

「勇人。今日はありがとう」
「? 何が?」
「一緒にホットケーキ作ってくれたこと」
「ああ、だって約束だったんだから、当然だろ」
「そうだね」

九十は軽やかに玄関を上がる。

「またみんなで楽しいことしようね」
「おう」
「でももし、難しそうだったらさ。勇人も一緒に手伝ってくれる?」
「うん、手伝うよ」
「そっか」

九十が振り返る。夕日を淡く受けて微笑む。影が暗い廊下に伸びていく。電気を付けなきゃ、と考えることが、違うようにも正しいようにも西には思えた。

翌日。布団の中、西はスマホのアラームを止める。画面には四月一日と表示されている。

廊下に出て九十と鉢合わせた。黒いタートルネックを着た九十は、大きくあくびをして、背を丸めたまま眠そうに目をこする。

「九十、ちょっと真っ直ぐ立ってみて」
「んー……」

おぼろげな返事をしながら九十は背筋を伸ばす。少し体が傾いているものの、概ね西の頭一つ分低いことがわかった。体型もいつも通り、中学生にも間違えそうな細さと薄さである。

「九十、背が伸びたか?」
「そうかなあ。そうだったら嬉しいなぁ」

眠そうに笑って九十は階段を降りた。

西は片耳に手を当てて「神様」と呟く。返事は無い。

「ええと、聞こえてないかもしれないですけど。お疲れ様です」

西は朝の習慣を済ませ、居間で食卓につく。隣にいる九十は、緩く体育座りをして、足を少し開き、ボーッとテレビを見ている。

食卓より少し遠いところにある仏壇を西は見る。写真立てが二つ置いてあり、一つは九十の祖父のもの、もう一つは九十の両親のものだった。

朝食を用意した悦子が食卓に朝食を並べ終え、三人は朝食を食べ始める。

「変なこと聞くんだけど、天使って知ってるか」

九十はじっと西を見てから自分を指さす。

「そっちじゃなくて、輪っかと翼があるやつ」

九十はゆっくりと野菜をつまみながら、同じ速度ではっきり論じる。

「天使の語源だね。神の使いの一種で、多くの場合鳥のような翼を持っている。天使は神の使いだと考えられていたから、天使は天使と呼ばれるようになった。本来の天使は今、それぞれの固有名詞で言うことが多いんだって」

九十は食べようとした野菜を落とし、箸でつまんで口に含む。「食べるか話すかどっちかにしなさい」たしなめてから悦子は西の方に向く。

「西くんの世界では、翼がある天使が一般的なのよね」
「そうです」
「いいなあ、俺も見てみたい、二林くんの世界の天使」
「ちょっと難しいかな……」
「二鄕くんは見たことないの?」
「大抵の人は見たことないよ」
「わたしも見たいわ、なんとかならない? 丹羽くん」
「悦子さんは名前で呼んでくれていいんですよ?」

悦子がクスクスと笑う。九十もふにゃふにゃ笑う。西は元の世界に戻ったことを実感した。

朝食を食べ終わるころには九十の目も醒めていた。食器を台所に置き、お薬カレンダーから薬を取り出す。

「なあ、今日って予定あったっけ」

九十がムッとする。

「忘れちゃったの?」
「ごめん、なんか今日寝ぼけてて」
「丹生くんだからってそのボーッと加減は許されないよ」
「ごめん」
「許す」
「許された」

九十が小さく吹き出す。それから眉を少し内側に傾け、勇ましく宣言する。

「ふふん。今日は四月一日だからね。俺たちでエイプリルフールっぽいお菓子を作るんだよ」

俺たち、というのは、九十と西の二人を指していた。

二人で材料を用意しているころ、インターホンが鳴った。西が玄関を開けると、黒井と令城がいた。

黒井は白に近い金髪で、ピアスをしている。服は昨日の四月一日と同じだった。

令城は右目を前髪で隠し、左目側の前髪は耳にかけて、シンプルな装飾のヘアピンで留めている。服装は昨日と同じカジュアル系だが、タートルネックに大きめのパンツとジャケットを合わせている。全体的に明るい春色だった。

「二人ともどうしてここに」

黒井と令城は嘘くさく笑う。

「ボクたちちょっと暇しててさ。九十家がなんだか面白そうだから来ちゃった」
「僕はそこで令城と会ってね。せっかくだからヒサの様子でも見ていこうと思って」

というのは建前で、と令城。

「西クンの動きがなんだかアヤシ~から、探りに来た」
「おれ?」
「朝から変なことばかり言ってたでしょ。神様がどうとか、天使がどうとか」

令城の目に怪しさが混じる。西はたじろぐ。そういえば令城は九十のストーカーをしているんだと思い出す。

「キミの言う神様っての、探ってみてもいいかなって思って。で、コイツは西クンの監視をするボクを監視しに来た」

令城は指を黒井を指さす。

「はは、僕は本当に偶然会っただけさ」
「白々しい~」
「ええと、せっかく来たならさ、九十の手伝いをしてくれないかな」
「手伝い?」黒井が聞く。
「ひーくんはエイプリルフールのお菓子を作るんだよ」
「君には聞いていない」黒井が顔をしかめる。
「ボクに聞いた方が早いよ。誰かさんと違ってボーッとしてないからね」

西は苦笑いする。

「その、おれと九十の二人で作るんだけど、どっちも料理初心者でさ。黒井が見てくれたら嬉しい」
「ボクは?」令城が眉をひそめる。
「令城は……、写真と皿洗い」

西は令城と受けた家庭科の授業を思い出す。家庭科のときの令城は、小テストが毎回赤点な上、野菜炒めをチリチリに焦がしたことでクラスでは有名だった。

「ふーん。まあ西クンがどうしてもって言うなら頼まれてあげてもいいよ。ひーくんのためだし」
「なぜ偉そうなんだ」
「黒井は?」西が聞く。
「そうだね、せっかくだからお邪魔しようかな。令城がやけに乗り気なのも心配だし」
「ジャマだと思うんなら帰れよ」

令城は黒井を押しのけるように玄関に入り、靴を脱ぐ。令城が投げ捨てた靴を黒井が揃え直す。

「細けェ男」令城が舌打ちする。

黒井は戸に背を向けて靴を脱ぎ、スリッパを履くと、廊下に背を向けて靴を揃える。

「知ってる? 家側にケツ向けて靴を揃えるのマナー違反なんだって」

嫌味ったらしい令城を黒井がにらむ。

「おれたちは気にしないよ」
「コイツが気にするからいーの」

令城は足取り軽く廊下を歩く。黒井はうつむき片手を握りしめる。

「ほんとにおれたち気にしてないよ」
「うん、ありがとう」

冷たい顔のまま小さく頷き黒井も歩き出す。

台所へ向かう黒井と令城を見て、西は気になっていたことを聞く。

「二人とも、昨日のことって覚えてるか」

振り向いた二人はきょとんとしている。

「覚えているけれど、それがどうしたんだ」

令城が口に手を当てて考え込む。独り言のように言う。

「普通に考えれば三月三十一日のことだけど、なーんか違うよね……」

令城は西を見る。

「たぶん覚えてないよ。なんとなくだけど、キミ以外は覚えてないんじゃない? 世界の仕組み的に」

そっか、と西は呟く。

「先に台所行ってて」

令城を問い詰める黒井を背に、西は自室に向かう。

自室でスマホを取り出し、利田にメッセージを送る。「おはようございます」の文字スタンプを送ってから本題に入る。

『変なこと聞くんですけど、昨日のことって覚えてますか?』

数分後、返信があった。

『はよ。本当に妙だな。三月三十一日のことなら覚えてるが』
『なるほど。把握しました』

はてなマークを出す漫画キャラクターのスタンプが返ってくる。

『こっちの話です。ちょっと混み入ってて、直接話さないとよくわからないと思います。それでなんですけど、今日うちに来ませんか?』
『今日は無理だ。エイプリルフールには外に出ないって決めてる。今日以外ならいい』

利田には嘘を見る能力があることを西は思い出す。嘘を見ることに疲れている様子から、エイプリルフールは利田にとって元々辛い一日なのかもしれないと西は気がつく。

それでも、と思う。今日という日を逃したくない気がする。

『先輩。ホットケーキミックスでお好み焼きが作れるって知ってます?』

少女漫画風の白目で驚くうさぎのスタンプが返ってくる。

『手前の嘘はわかんねぇよ』
『嘘か本当か確かめるためにうちに来ません?』
『そこまでの急用なのか』

怪しげに笑うキャラクターのスタンプを送る。

『わかった。そこまで言うなら行く』

釣り竿にかかったクマのスタンプを送ると、歯ぎしりをする猫のスタンプが返ってきた。

十数分後、玄関で迎えた利田を台所に連れて行く。利田と黒井は互いを見て渋い顔をした。材料を混ぜていた黒井は手を動かしながら悪態を吐く。

「なぜ君がここにいる」
「そりゃオレが知りてぇ」
「先輩はおれが呼んだんだ」

信じられないものを見る目で黒井が西を見る。令城が混ぜていた手を止める。

「ちょーどいいとこに来たじゃん、料理上手が二人もいりゃボクら無敵だね」
「はあ?」利田が首を傾げる。
「俺たちエイプリルフールの料理を作ってるんだ」

九十が利田にスマホでレシピを見せる。納得げに、怪訝に西を見る。

「急用じゃなかったのかよ」
「急用ですよ。エイプリルフールは普通一年に二度もありませんから」
「普通じゃねぇエイプリルフールがあるかっての」
「ところで金兄。なんかボクのボウルすごい色してるんだけど」

令城がボウルを見せる。ホットケーキミックスが濃い茶色になっている。

「はあ?! お前何すればそうなんだ、ちょっと貸せ」

台所に分け入って入ろうとする利田の腕を黒井が掴む。

「おい、料理するなら先に手を洗え」

利田はもどかしげに舌打ちし、水場で手を洗う。

「なぜ洗面所で洗わないんだ、ここは台所だぞ」
「どこで洗ったって同じ水道水だっつの」
「そういうことじゃ……!」
「あっ!!」九十が声を上げる。
「今度はなんだ!」
「ホットケーキミックスに卵入れなかった……」

黒井は困ったように眉を上げ、利田は呆れたように眉間を押さえる。

「ダイジョ~ブ、入れなくたって変わんないって」

令城はヘラヘラ笑い、西が苦笑する。

「さすがに変わると思う」
「わかった、こうしよう」

黒井が提案する。

「僕とヒサ、西くんで材料を用意しよう。キンセイ、ダン、君たちはホットプレートを用意してくれ」
「りょうか~い」令城が敬礼する。

利田は不服そうだが、

「西、ホットプレートどこにあんだ」

そう言って腕まくりをする。

各々が作業を始める。西は九十を盗み見る。九十は黒井と話しながら楽しそうにボウルを混ぜていた。

何が正解かはわからない、と西は考える。天使がいる世界を選ぶべきか、いない世界を選ぶべきだったか。きっとずっとわからない。それでもこの世界なりに生きていくしかないし、おれが今幸せなこともまた本当だ。