とーごイ洋志二次創作短編小説『心の味』

2023年3月12日

目次
  1. 注意書き
  2. 本編

注意書き

本作品は2021年1月21日にPixivで公開した作品をサイト掲載用に一部編集したものです。内容はPixiv版と同じです。
Pixiv
とーごイ洋志二次創作短編小説『心の味』

本編

一 問題提起

鍋の中で茶色の汁が沸騰し、水面のゆれにあわせて白い麺が緩く波打つ。好物の匂いをもっと嗅ごうと、わたし――とーごイ洋志は調理台の端に手をかけ身を乗り出す。
 
「離れていなさい。はねた汁がかかってしまう」

横合いからわたしを制止する手が伸びる。白く長い腕の先で、ぼざぼさの黒い短髪と裏腹の、端麗で中性的なマスターの顔が冷静にわたしを諭していた。

「君はすぐ調理器の上に手を乗せてしまう。本当は台所にすら入れたくないのだけれど」

マスターは手に持った菜箸で鍋の中を軽くかき混ぜる。マスターが料理をしているところを横から眺めるのがわたしの日課だ。

「だって! 料理ってとても興味深いんです。好きなものが段々できあがっていく様子を見るのが、我が子の成長を見守っているようで」
「その我が子を今から食べるのだけれどね。とにかく居てもいいけれど、じっとしていなさい」

わたしはじっとしていられず、躍るように脚が跳ねる。

「そろそろですかね?」
「茹で始めてどれくらい経ったの」
「三十秒です」

時間を告げただけなのに声のピッチが普段より高くなっていた。推測するに、わたしはマスターの作るうどんが待ちきれないのだ。

マスターの菜箸は慣れた手つきで、鍋の中から一本の麺をつまんですくい上げる。つまんだ麺を軽く観察し、口に含み、ゆっくり咀嚼する。

「お味どうです?」
「まったくわからん」

麺汁と一緒に茹でた麺であるにも関わらず、マスターは味がわからないと言う。マスターの表情は1mmも変わらない。味がしないことはマスターにとって当然なのだ。

マスターには味覚障害がある。わたしと出会う以前から何年もそうだとマスターは言っていた。何を食べても無味無臭に感じられるらしい。

マスターの味覚障害を知ったときわたしは困惑した。マスター本人は味覚障害に不自由していないようだが、その状態のままではよくないと思い治療を勧めた。しかし何度治療を勧めても「必要無い」と一蹴されてしまうので、最近は話題に出す頻度を減らしている。

マスターは麺をもう一本すくい上げ、わたしの方に差し出してくれる。「味見をして」が聞こえると同時に、わたしはついばむように麺を頬張った。

「味はどう」
「めちゃくちゃしょっぱいです!」

ついつい眉間にしわを寄せてしまう。麺汁の原液の味がする。塩辛さで舌が痺れてしまう。麺も麺で固い、消しゴムより多少柔らかいくらいだ。

マスターは料理に頓着しない。「何を食べても同じだから」と言い、毎日三食うどんしか作らない。調理方法もいい加減だ。麺を茹でるときお湯と一緒に麺汁を入れてしまうし、その量はいつも過剰だ。

「本当に君は人間のような動きをするね」

マスターはわたしの眉間を見つめている。無表情だが、瞼が少し開き気味だ。

「まだわたしを幻覚だと思っていますか?」
「半分くらいね」
「半分もですか!? もう二年も一緒に生活したのに……」
「『フォルダーが擬人化して自分の前にあらわれる』なんて非現実的なことはすぐ信じるべきじゃない。現実的に考えて、まず病気を疑うべきだ」

マスターは用意していたお椀に直接うどんを流し入れながら、淡々と答える。わたしが見えることを病気と疑われるのが、直感的に悲しいと思った。

わたしはパソコンの「とーごイ洋志」のフォルダーが人の形になった存在だ。肉体と自我があり、パソコンの外、つまり現実世界に出てこられる。

初めてパソコンの外に出て、まずマスターにされそうになったのは通報だ。次にマスターは病院へ駆け込んだ。そのときお医者様に「私は幻覚を見ています」と言った声は、今でも鮮明に思い出せる。

マスターの言葉はいつも率直で無駄が無い。語気は強くないのに一つ一つの言葉が明瞭に耳に収まる。しかしその正直さと言い訳の無さがかえって悪印象を与えることも少なくない。

「先に食卓についていて。これは運ばなくていい。落とすから」

気を落としながらもお盆に手を伸ばしていたわたしにマスターはすかさず口を挟む。

「そんな顔をしてもだめ。そうやって三度もやけどをしたし、落とした食器で脚を打撲したこともある。また食器を割ったら、君はその破片を踏まずにいられないでしょう」
「でもそろそろ力加減が分かってきました! だから――」
「だめ」

丸い口から発せられるたった二文字の言葉がわたしの弁解を断ち切る。疎らな前髪から覗く真っ黒の正円の瞳がわたしの目を捉えて見逃さない。瞬き一つしないまっすぐな視線が精神を言い聞かせる。神経が首筋の冷や汗を捉える。息を呑んだ。

瞬きする。目を開けると、マスターの目線はお椀に逸れていた。一瞬の緊張がようやく緩んだ。マスターは力を抜くように短く息を吐く。

「君も諦めが悪いね。挑戦しようとする向上心は素晴らしいけれど、怪我して困るのは君でしょう。いいから食卓についていて」

マスターを納得させられる言葉が思いつかず、渋々手ぶらのまま食卓へ向かった。
 

二 提唱

二人の「いただきます」と拍手の音が示し合わせたわけでもなくはもる。箸がこすれるカチャカチャという音が六畳の簡素な部屋に響いた。

麺を一束啜る。味見をしたときと同じ、恐ろしく塩辛い汁と固い麺が口内を襲った。思わず口がすぼんでしまう。

「味もわからないのに毎日三食律儀に食べなくていいと思うのだけれどね」

机を挟んでわたしの正面にいるマスターが、うどんを口に流し込んでいる。窓から差し込む日差しは午後の始まりを告げていた。

「マスターは食べなければいけませんよ、人間なのですから。それに早食いは止めてくださいと何度も! よく噛んで食べなければ」
「そういう君はまずいうどんを毎日食べて嫌にならないの」
「わたしよりマスターの食生活を心配してください。栄養バランスの整った食事をしましょう」
「だから毎朝、君が勝手に定期購入して薦めてきた栄養ドリンクを飲んでいる」
「それ以外にもです!」
「生活できている。問題無い」

少し強い口調で説得してもマスターの頑なな態度を崩せない。いつもそうだ。マスターの個人的な部分に踏み込むと、はっきりとした主張で跳ね返されてしまう。その度に落胆する。マスターはこの二年でわたしを受け入れてくれなかったのだ。

でもあなたの主張を押し切るほど深く踏み込めずにいるのはわたしの方。
 
「……まずいのなら、無理して食べる必要は無いよ」

目に見えるほど落胆していたのだろうか。マスターの声にどこか心配げな息づかいが混ざる。わたしは意図的に口角を上げて、高い声で話し出す。

「『まずい』といえば、食事をするたびに思い出します。マスターの言葉」
「何か言ったっけ」
「『人間は、心があるからごはんを食べておいしいと思う』。ってやつです」

マスターの箸が一瞬止まったのをわたしは見逃さなかった。何事も無かったかのようにマスターはうどんを啜り続けている。

「君がそれを覚えていると思わなかった。君、『味覚障害の原因は心因性の他にもありますよ』って言っていたから」
「う、そのときのわたしはその、詩的な感性に乏しく」

忘れていた過去の発言に追及され言葉がつっかえる。わたしは軽く咳払いをしてお茶を濁し、「最近思うんです」と仕切り直す。

「わたし最近、ごはんがおいしいと思えるんです。
 いえ、ここへ来た当初も食物の味を理解していましたし、おいしいと感じていました。でもただ味だけを見て『おいしい』と思っていたのです。
 食事は味だけじゃない。食感、匂い、誰が作ったか、調理の過程でどのように味が育まれたか――。様々な要素が噛み合って、食事に深い味わいをもたらしている。そう思えるようになりました。
 直感的な私見ですが。食事を一層おいしく感じるのは、心を得たからです。マスターと過ごすことで、わたしにより深い感情や感性が育まれたからです。それこそ食事と同じように。
 わたしマスターにお礼を言いたいのです。マスターの元に来なければ、ごはんのおいしさも、心の豊かさも、知ることはありませんでした。本当にありがとうございます」
 
「すみません急に改まって……」と言いながら髪を触る。喋ろうと思っていたことより話しすぎてしまった。でもこれがわたしの本心。

わたしの話を聞きながらずっとうどんを啜っていたマスターは、ついにうどんを食べ終わったらしい。箸を箸置きに乗せ、音も無く手を合わせると緩く目をつむる。手を離し瞼を開けたマスターは言った。

「君に心は無いよ」

……。

わたしが呆れたように吐いたため息は少し大げさだった。
 
「マスター……何度も申し上げますが、その表現には不服申し立てます。わたしにも心はあります。
 わたしは、確かにまあ、共感能力に欠けますし、感覚的なことや感情的なことに疎いです。ですけれどもね。『心が無い』なんて言い方だとまるで、人でなしみたいじゃないですか」
「なら僕も何度だって言う。そもそも僕が言いたいのはそういう上辺の話ではないよ」

マスターは手を組み、背筋を伸ばして真っ直ぐこちらを向く。また黒い正円の瞳がこちらを捉える。柔らかいのに突き刺すほど硬い声が論じた。
 
「君は架空のキャラクターなんだ。そして架空のキャラクターに心は無い。
 君が笑ったり、泣いたり、家事に失敗したりするのも全て、そう設定されたからにすぎない。そう動くべきだからそう動かされている。喜んでいるように、怒っているように見えても、本当にただそう見えているだけだ。
 君は作品だ。僕は小説や漫画に自我があるなんて思ったことは無い。ただの物、娯楽、無機物でしかなく、それらに神経も脳も無い。
 君に心は無いよ。心があるように見えるだけ。君は人間と見間違うほど精巧な、虚構だよ」

一息も吐かず言い切るマスターに息切れをしている様子は無い。ただじっと、微動だにしない体が、顔が、瞳がこちらを見つめている。わたしはその視線に耐えられず俯く。開ききらない口から声が漏れた。

「わたし、その考えはすごく、すごく……寂しいです」
「抽象的な表現だね。君らしくない」
「確かにマスターはわたしの思考を見ることができません。だから思考の存在を信じられないというのは理解できます。

でも、わたしには、心があります。マスターとの食事を楽しいと思ったり、こうして話している時間を、……愛しい、と、思います」
言いよどんだ「愛しい」の言葉に空気が揺らいだ気がした。

「わたしの存在が見せかけで、ただそう見えているだけ、だなんて。それじゃあマスターと過ごした日々や、そこで得た感情までも嘘になってしまいます」

「わたしそんなの嫌です」と口にした言葉は、自分が思っているより小さく、震えて聞こえた。

マスターの返事が怖かった。応答の無い無音に、ずっと続いて欲しいとも、いっそ終わって欲しいとも思った。数秒の空白の間であらゆる不安が渦巻いた。踏み込みすぎただろうか怒らせただろうか、マスターは何を考えているのか。どう反論するかについてか。またあの無表情が冷静に諭すのだろか。それとも――。

「僕は人間ではない君が好きだよ」

見上げる。そこには困ったような笑顔があった。

首を少し倒し、眉間に密やかにしわを寄せ、目を細めている。日光が前髪や瞼をすり抜け、瞳を照らし、ぼやけた虹彩と星のようなハイライトが睫毛の間でちらつく。薄い唇を軽く横に広げた、笑っていると認識できるギリギリの微笑みは、ほんの少しの刺激で泣き顔に変わってしまいそうだ。

微笑んだ口が仕方なさげに、あやすような弁論を唱える。

「心なんてあってもね、面倒くさいだけだよ。
 人間は、心があるから人を怖がる。心があるから人を疑う。心があるからいちいち悲しくなって苦しくなる。馬鹿だよ人間は。幸せなことだけを考えていればいいのに、わざわざ自分から苦しみに飛び込む。ついには苦しみを自分の中に抑えきれなくなって、人に押しつけて、強要して、攻撃して、争って、後に残るのは一生溶けない不和だけ。
 だから僕は心を捨てた。煩わしいものは皆捨てた。これから先持つつもりも無い。例えば僕が味覚障害を悲観しないのは、心を捨てたからだよ。どうも思わないんだ。心が無いから。
 洋志。君は心が無いままでいてくれ。
 心が無い君こそが好きなんだ。君だから共に過ごしたいと、……過ごしていいと、思う。君は心が無いことを悲観しなくていい。わざわざ苦しみを得ようとしなくていいんだよ。
 だからそんな顔をしないで。
 心に振り回されるのはもう嫌なんだ」

マスターは区切るように息を吐く。
 
「さ、うどんが伸びてしまう。早く食べてしまいなさい。でも食べたくないなら捨てていい。
 僕は自室で作業をする。食べ終わったら呼びなさい。食器を洗うから」

マスターは食器を持って立ち上がる。足音に次いで食器を置く音が、そしてドアの開閉音が背後から鳴る。

わたしはしばらく、口を堅く結んだまま動かなかった。お椀に残った何本かの麺と汁を、早く食べ終わらなければいけないとだけ思った。

箸を持ち直しながら、マスターの一言を反芻した。

「心に振り回されるのはもう嫌なんだ」

そういうことがマスターにあったのですか。という言葉を口から出す寸前でうどんと一緒にかきこみ、食道に押し込む。

……ああ、おいしいなぁ。

麺に絡まった汁の味は、涙が出るほどしょっぱくて、痛くて、何よりも好ましかった。

三 独白

マスターの作るうどんがおいしい。そう気がついたのは一年前だ。どんな食事よりも、マスターの作るしょっぱすぎるうどんがおいしかった。

マスターには話さなかった。話せなかった。また困ったような笑顔にさせる気がした。

わたしが悲しみや苦しみを訴えるとき、マスターはいつも困ったように笑う。その笑顔を見ると、私は直感的に、あなたは私と距離を置きたいのだと思った。マスターが「心」を遠ざけていること、悲しみや苦しみを心と関連付けていることを、後になって、理由として据えられる気がした。

あなたはなぜ心を遠ざけるのでしょう。恐怖や疑心、悲しみや苦しみを忌むのでしょう。あなたの困った笑顔が主義を説く度に、その理由を追求したくなる。あなたの痛々しい過去を暴いて知りたくなる。暴走する好意があなたの内情に深入りしたがる。事情心情を顧みず。そんな結論を安易に導き出す心が、わたしの信条から乖離していく。

マスター。わたしはあなたが好きです。あなたと過ごす穏やかな日々が好きです。その日々の中で得る体験や発見が好きです。あなたと世界を知ることが、あなたの世界を知ることが好きです。こんな素晴らしい生活が毎日続いて欲しい。

そんな大事なものを好意と興味だけで崩しそうになる。

もしこの気持ちを告白したら。あなたはきっと笑ってくれる。目を細めて、ゆるやかに笑いかけてくれる。困ったように。

わたしは、あなたの笑顔の裏に隠された悲しさがあることを想像してしまう。あなたは笑っているように見えて泣いているのではないか。わたしには想像も付かない苦しさで泣いていて、それを押さえようとして、一つ間違えれば泣き出しそうな笑顔が生まれるのではないか。

この素晴らしい日々を終わらせるのはきっとあなたの困った笑顔だ。泣きそうな笑顔が本当の泣き顔に変わってしまったときだ。それを変えてしまうのは、わたしだ。

……この恐怖が、疑心が、悲観が。心なのでしょうか。

これがあなたの言う心なのでしょうか。

お椀を持ち上げて汁を啜る。温くなった汁が食道を伝い、しょっぱさで焼けただれるような感覚になる。苦しい。こんな苦しい時間を毎日かかさずすごしている。だというのに味わうことを止められない。

マスターが言うように、心があるから食事がおいしいと言うのならば、このしょっぱさは涙の味です。わたしから流れる塩化ナトリウムの味です。

これが心の味です。

【終】