短編小説『罪の遺品』

2026年4月11日

目次
  1. 概要
  2. 本編

概要

本編

祖父の遺品に開かずの金庫があった。遺品整理中、クローゼットの隅で見つかった。

誰もパスワードがわからない。遺言では「必要なもの以外すべて処分すること」とあったが、中身もわからないものを捨てるのは、両親とも抵抗があり、捨て方もわからない。

祖母は「中身も捨てていいって聞いてるわ」と言った。それでも母は渋い顔で、ちょうど廊下に出た僕を、「拓人も手伝いなさい」ととがめた。父は困り笑いをして、「ぼくたちだけで終わるから」となだめた。

数日後、祖父の部屋はもぬけの殻だった。遠目に見れば和室は新居と違いが無い。物を持たない人だったから、遺品整理も早く終わった。

障子から広がる薄い光の中に入ると、Tシャツごしにもほんのり暖かい。ふすまを開ける。影になった押し入れに、黒い金庫が残っていた。僕は正座して、テンキーに触れる。

まず僕の誕生日を入れた。ノブを回しても開かない。少し考える。僕の出生時刻を入れた。ノブを回して、ゆっくり引く。

一冊のアルバムが入っていた。黒く分厚く、何の見出しもない。

アルバムを抱えて、腿の上で開く。サイズの異なる写真を辺でそろえて並べている。映っているのは、黒髪を真ん中で分けて、童顔に冷めた目と柔らかい眉を貼り付けた男。どう映っても面白くない、ピースすらそっぽを向いた、僕。

最初からページをめくる。時系列順に、赤子から幼児、少年から青年と続く。前半は、誰かしらが撮った顔の見える写真か、家族写真がほとんど。後半は祖母との写真、もしくは祖母が撮った写真が多い。

二枚の写真でアルバムは終わる。

一枚は、僕と祖父の自撮り写真。仏頂面の僕と同じくらい、祖父も表情が変わらない。若い頃はハンサムだったそうだが、老いてからは渋みと深みが出ている。少し垂れた切れ長の目に銀の眉が影を落とす。祖父は少し良いスーツを着て、僕は手持ちの中で一番しわの無いジャケットを着ていた。

もう一枚は、生まれたばかりの僕だ。ベビーベッドの中で、ふっくらした指をくわえて眠っている。少しピントがぼけて、傾いて、無駄な余白がある割に被写体が大きく欠けていたが、顔はそれなりに見えた。

僕はしばらく写真を見つめていたが、やがてアルバムを閉じ、金庫に戻して、扉を閉じた。

ふすまを閉めたこと、元の部屋と変わらないことを確認する。部屋を出て、音を立てずに二階へ上がり、僕の自室に入る。

クローゼットを開けて、冬物の引き出しの奥から、一枚の布団カバーを引き出した。遺品のゴミ袋の中から、こっそり持ち出したものだ。

自室のドアの鍵の向きを確認してから、ベッドに寝転ぶ。カバーを広げて見上げる。染みもしわも無い白。縮めて頬に当てる。せっけんの香りの中から、汗を数倍濃くした加齢臭が立ち上がる。深く息を吸うと、甘い香りが浮き出る。バターを塗った焼き菓子をミルクに浸したような味に近い。

カバーにくるまる。香りが耳の後ろから漂い、顎の下から浮き、額の上から流れ落ちる。香りの輪郭はぼやけているのに、直接嗅ぐより距離が近く感じられた。

枕を体とカバーの間に押し込んで、カバーを巻き込みながら枕を抱きしめる。初めは冷たかった枕も、力を込めているうちにじんわり温まってきた。ゆっくりとなでれば、なでるほど、汗がにじんで熱を帯びていく。

枕が潰れないように腕を緩めて、額を枕に当てる。

僕が感じたことがある中で、一番祖父の抱擁に近い感覚。

たった一度だけの記憶をたぐり寄せて、抱きしめられていると錯覚する。

唯一祖父と出かけた日のことだ。理由は何かしらでっち上げて、とにかく一度でも二人でいたかった。僕はバリエーションに乏しいクローゼットからなんとかコーデを絞り出し、一番しわの無いジャケットを着た。いつもスーパーの安売り品を顔の良さで引き立てている祖父は、その日、見たことのない美しいスーツを着ていた。俳優か社長と言われても遜色ない。僕が妄想していた以上にかっこよかった。

一緒に歩いているだけで幸せだった。それ以上望めばこの時間は終わると思った。

それでも僕は、二つわがままを言った。一つは二人で写真を撮ること。もう一つは、抱きしめること。

抱きしめてほしいと言ったときの祖父の顔は、悲痛だった。痛みに耐えるように目を絞り、瞳を泳がせた。僕の顔を見て、哀れみをにじませた。僕は締まる胸をこらえて、殺し文句を言う。

「家族が生きているうちに、抱きしめておきたいんだ」

うろたえる祖父の腰に手をかける。硬直した体に抵抗が無いのを見て、恐る恐る背に手を回す。頭を横に倒して、首元に収まるように寄りかかれば、せっけんの香りから汗を煮詰めて放置したようなすえた匂いが暴かれた。浅い呼吸の中に、砂糖とバターを焼いて、ミルクを煮出したような香りがどことなく混じる。ピンと張ったスーツを腕でくしゃりと押し込むと、骨張った体を覆う筋肉の弾性が反発した。

自分の背中に熱がこもる。腰椎と胸椎の間が手で押し上げられ、胸と腹同士がぴったりと吸い付いた。呼吸が肌で感じられる。鼓動が胸に響いて聞こえる。肩に乗った顎に重さがある。全身を包んだ熱で段々と火照る。夏の日差しが体の中から生まれてくる感覚。怖かったことも、泣きたかったことも、全部額の少し上の、思考が曖昧にとろけたところへ消えていった。

永遠に感じる時間だった。きっと本当にそれだけ抱きしめ合っていた。

何度思い出しても生々しく、しかし何度も思い出しても本物には遠く、思い出すほど遠ざかっていった。

下で物音がした。聞き耳を立てる。「ただいまー」というかすかな声と、一人の足音。

僕はそっと布団カバーを脱いで、緩くたたんで引き出しの奥に押し込む。音を立てずに鍵を開けて、急きすぎないように足音を立てて歩く。

リビングに降りると、祖母がスーパーから帰ってきたところだった。扉からのぞき込んだ僕に、祖母が気づいて笑いかける。まぶたの落ちた目がうれしそうに釣って、細い眉が孤を描く。

「ただいま!」
「おかえり」ぼそぼそと返す。
「たーくんの好きなガレット買ってきたよ、おばあちゃんと食べよ」

僕がうなずくと、いそいそと、テキパキと袋を片す。

食卓にガレットと緑茶が並ぶ。二人とも席に着いてから、祖母は薄い口でガレットにかぶりついた。

僕がガレットに手を付けないのを見て、祖母は緑茶を喉に流し込む。気持ちよさそうに息を吐いてから、頬づえを付いた。

「何かあった?」

言葉のつっかえた僕を、祖母は待つ。僕は控えめに口を開く。

「おじいちゃんの、金庫」
「うん」
「鍵、開いたよ」
「……、中見た?」

下を見てうなずく。

「そっか」

祖母は、「少し待ってて」と言い残し、リビングを出る。戻ってきて、僕のそばで膝を床に付けた。手の中に腕時計を持っている。

「これ、おじいちゃんの腕時計」

目を丸くして、差し出されたものと祖母の顔を交互に見る。黒いシンプルな文字盤に細い銀の縁。革のベルトは手入れされているものの使い込まれている。祖父の腕をよく見たことはなかったが、おぼろげな記憶のイメージと腕時計は合致した。

「遺品は全部捨てたんじゃ」
「これは遺したの。そうするべきだって私が言ったから」

細くしわの入った白い手の上に乗った、黒く凜々しい時計。僕は膝の上で手を握りしめて、かぶりを振る。

「受け取れない」

少し間があって、祖母の手が僕の手首に回った。柔らかくなでると、反射的に硬直が緩む。

「あたしは、形のあるものも、無いものも遺るけど、あなたには何が遺るんだろうって思ったの。ちゃんと形で遺らないと、不公平でしょ」

上目に祖母を見る。目の影の入り方で表情が変わる人だった。今は白目に深く落ちて、でも瞳は沈みきらずに潤んでいる。眉も唇も角度を明確に捉えられない。僕は笑っていると思った。

「どうか受け取ってください」

うなずいていいのかわからなかった。ためらっているうちに、祖母は手を滑らせて掌を持ち上げた。何も言わないのを捉えて、手際よく腕時計をはめる。頼りない白い腕に、不釣り合いな重い時計。

「うん、似合ってる」

うつむいた僕を祖母が抱きしめる。肩を腕全体で包んで、引き寄せられる。髪が頬にかかると、祖父と同じせっけんと、花のようなシャンプーの間に、古い本が香る。僕と同じくらい華奢な腕の、力強さに反して、発した声はかすかだった。

「ごめんね」

……涙のにじんだ目を、眉と下まぶたで閉じ込める。指先で祖母の背に触れる。

「おばあちゃんが謝ることじゃない」
「そうね。あたしが謝って許されることじゃない」
「そうじゃなくて」弱く首を振る。
「わかってる。でも謝らなくちゃ。おじいちゃんがあなたと家族らしくいられなかったことも、好きな人を好きに愛せなかったことも、謝らなくちゃいけなかった。もう謝れるのは、あたししかいないの」

「僕の方が」と言いかけて、祖母が首を振った。

「運命がいじわるだっただけ。たっくんは最後まで偉かったよ」

唇をかみしめる。肩に顔を埋めて、できるかぎり強く手を引き寄せた。垂れそうになる鼻水を必死ですする音が、心から申し訳なかった。祖母の手が髪を柔らかくなでる。

「腕時計は、どうかいらなくなるまで持っていて」

……すがりつく声はどうしても幼くなってしまう。

「いらなくならなかったらどうしよう」
「あなたの棺に入れたらいいわ。きっとそれぐらい、許されるわよ」

また涙が勝手にあふれ出て、額も頬も全部引き寄せて閉じ込める。肩も腕も足も、引きつって、こわばって、固いのに体の芯が揺らいでいた。体温に寄りかかってどうにか保っていた。

泣いてはいない。泣いてはいけない。目のしびれが収まるまで、呼吸の乱れが収まるまで、ずっと抱きしめていた。

体を離すと、机のティッシュを祖母が取ってくれた。鼻をかんだティッシュを、祖母が寄せたゴミ箱に転がす。

祖母は優しい顔のまま、ニヤリと笑う。

「実を言うとね、あの人、最後までキスはさせてくれなかったの。今考えたら腹が立ってきちゃった。ちょっとぐらい仕返ししないと割に合わないわ」

そう言って左手を眺めると、口に寄せて、薬指の指輪に口づけをした。見上げて、いたずらっぽく笑う。

「これくらいなら、許されると思わない?」

視線が腕時計に向く。僕が大きく首を振ると、「いーのいーの」と腕を叩く。

「ほら、あたし見てないから!」両手で目を覆う。

僕は胸がむずかゆくなり、祖母に肘で小突かれると、息を止めて、文字盤の縁を唇の先端の先端で触れた。表面が少しだけ冷える。

祖母をうかがうと、指の隙間から瞳が見えた。

「見てないっていったじゃん!」
「見てない見てない、端っこだけだから」
「見てるじゃん!」

熱くなった頬を覆う前に祖母の手が挟み込んだ。指先でこねて、僕が口をとがらせると、頭を抱えてわしゃわしゃとなでる。言葉にもならない高い笑い声に釣られて、結んだ口がつい笑んでしまう。

僕はこの人が家族で良かった。この人が家族を作ってくれて良かった。

そう思ったら、少しだけ、この遺品のことを愛せる気がした。


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