愛まほ短編小説『桜海に朝』

概要
- 拙作ゲーム『愛とはあなたを破壊する魔法』の短編小説です。
- ED3後のお話です。
- 愛まほ短編小説『桜海に夜』と対になるお話です。
- 『桜海に夜』と比べるとグッドエンド寄りです。ここでのグッドエンドは「ハッピーと言うほど幸せではないが登場人物は納得してポジティブにお話が終わるエンディング」を指します。
本編
薄暗い夜空の端から明るくなり、朝日が桜を照らす。満開だ。一つ一つは白い花でも、木々が集まるとほのかに桃色が浮かぶ。
男が見上げる。白い髪、薄い肌、色の抜けたパーカー。花の中で黄金の瞳が光っている。黒いメッシュと幹だけが濃い。重い前髪の下で瞬く。口が少し緩んでいた。
風に乗って花びらが流れていく。俺の心臓だけがうるさい。耳まで脈打っている。鼓動で視界が揺れるようで、だけど絶対に目を離せない。
それは死んだはずの男。自分が見捨てたはずの男。
俺が砂利を踏みしめると、彼はこちらを向いた。小さくつぶやく。
「佐久真」
「……久しぶり」曖昧に手を挙げる。
言葉を選び、口にする。
「伊方はどうしてここに」
「さあ」首をひねる。「佐久真は」
「俺もわからない」
辺りを見回す。俺たちが立っている小道は、しばらく先まで桜並木が続いていた。
「とりあえず歩こう」
俺が歩き出し、伊方も横に並ぶ。
流れる桜をぼんやりと眺める。綺麗だけど落ち着かない。心臓は乱れたままだ。
伊方を盗み見る。少し背を曲げて、遠くを見ていた。歩幅は小さくて遅い。生前よりゆっくりに見えた。
桜は、後ろにも前にも、左にも右にも続いている。遠くの方は白く霞み、終わりが見えない。腕を振ると冷たい空気が肌をなでる。吸った空気が喉を冷ます。
「ここ、桜海
みたいだ」
「桜海?」
「前に本で読んだ。空と天国の間にある場所だって」
「ふーん」
五歩ほど歩いてから、伊方が話し始める。
「最近どうなんだ」
「何も変わってないよ」
「佐久真はそうだろうな」鼻で笑う。
「馬鹿にしてんのか」
俺は口をとがらせてから、ニヤリと笑う。
「一つあった。最近宇野君とよく話すんだ」
「宇野?」目を丸くする。
「いい子だよな、大型犬みたいで」
「それはオレの知ってる宇野じゃねぇ」
「確かに聞いてたイメージとは違うな」
「騙されてんだよ」
「そんなことないって」
「そんなことある。佐久真は騙されやすいから」
俺は口をゆがめる。
「お前に俺はどう見えてんだよ」
「変人趣味のお人好し」
「ホント何が見えてんだよ!」
勢いでツッコむと、伊方はケラケラ笑って、息を抜くように顔が緩む。
「でもよかった。佐久真に友達ができて」目を細める。「オレがいなくても大丈夫だな」
心臓が動かされた。次の言葉が出てこない。伊方がきょとんとする。
笑え、と頭が言う。笑おうとして、笑おうとして、顔をそらした。すぐ顔をそらせばよかった、こんな顔を見せるくらいなら。
隣で足音が止む。足を止める。
「……佐久真、あれ」道の先を指す。
踏切だった。狭い小道にこぢんまりと立っている。さびているが、黄色と黒のインクが桜の中でチカチカと浮いている。電線と線路も合わさって、一本の境界線のようだ。
「変な踏切だな」
歩き出すが、伊方は動かない。振り返る。伊方は踏切を見つめている。
「オレは行けない」
「行けないって」
寂しそうな顔をする。
「あの先はオレの世界じゃない」
息を呑む。――桜海は空と天国の間にある。ここは生と死の境目。
俺は空へ。伊方は、天国へ。
俺たちはここで別れなければならない。
踏切の奥は深く霞んでいる。俺は頭を落とし、拳を握る。
伊方は何も言わないで、待ってくれている。
俺はジャケットからくしゃくしゃの煙草を取り出した。煙草を差し出すと、伊方は驚いてポケットを探る。俺は眉に力を込めて話す。
「勝手に持って行ってごめん。次会ったとき、返そうと思ってたんだ」
伊方は箱を開けて、吸い口を指でなぞる。
「全部あるな」
どきりとする。
「そうだよな。割り切れないよな。でも、決めたんだよな」
独り言をつぶやくと、煙草を一本取って、箱を俺の手に戻した。
「残りは次でいい」
うつむくと目が髪に隠れる。口が小さく笑う。取り出したライターで火を付け、煙草を吸う。横顔が煙を吹く。
「でも、吸ってもいいよ。吸えばまたここに来る」
踏切の鐘が鳴り出した。不安定な金属音は耳元までくっきりと聞こえる。
「行けよ。通れなくなるぜ」
俺は目を閉じている間に振り向いて、踏切を渡る。
振り返る。踏切との距離は数メートル。線路を境に向こうはもう霞み始めていた。遮断機がガクンと揺れる。今ならまだ、走り抜けられる。
一歩踏み込んだとき、伊方が手を振った。頭の上に挙げた手を大きく揺らしている。白い空気の中で、メッシュと、瞳が浮かんでいた。押しつぶしたような瞳と目が合う。遮断機が視線を遮る。
俺は腕を高く上げて、勢いよく振った。大声で叫ぶ。
「必ず返しに来る!」
伊方は煙草を掲げた。手の先から煙が登っていく。
俺は踏切に背を向けて歩き出した。鐘がまだ鳴っている。歩いて、速く歩いて、走って、潤んだ目を閉じ込めてひたすら走る。
顔を上げる。桜が涙でにじんでいる。腕を振り続ける。明るくなった空全体が桜を照らす。花が白く輝き、桃色が光る。
鐘がまだ鳴っている。鐘の音は、足が付くより前に、あるいは後に限って鳴る。少しずれた高さで、なのに速度は一定で、狂い無く耳元で鳴り続ける。外からというより、頭の奥から鳴っていた。
鐘が消えることはない。この先もそうだと思った。それでもいい。きっとお前はそう言ってくれる。
だから、一本足りない煙草を返しに来るよ。
いずれまたここへ。桜海で。