愛まほ短編小説『桜海に朝』

2025年4月12日

目次
  1. 概要
  2. 本編

概要

本編

薄暗い夜空の端から明るくなり、朝日が桜を照らす。満開だ。一つ一つは白い花でも、木々が集まるとほのかに桃色が浮かぶ。

男が見上げる。白い髪、薄い肌、色の抜けたパーカー。花の中で黄金の瞳が光っている。黒いメッシュと幹だけが濃い。重い前髪の下で瞬く。口が少し緩んでいた。

風に乗って花びらが流れていく。俺の心臓だけがうるさい。耳まで脈打っている。鼓動で視界が揺れるようで、だけど絶対に目を離せない。

それは死んだはずの男。自分が見捨てたはずの男。

俺が砂利を踏みしめると、彼はこちらを向いた。小さくつぶやく。

「佐久真」
「……久しぶり」曖昧に手を挙げる。

言葉を選び、口にする。

「伊方はどうしてここに」
「さあ」首をひねる。「佐久真は」
「俺もわからない」

辺りを見回す。俺たちが立っている小道は、しばらく先まで桜並木が続いていた。

「とりあえず歩こう」

俺が歩き出し、伊方も横に並ぶ。

流れる桜をぼんやりと眺める。綺麗だけど落ち着かない。心臓は乱れたままだ。

伊方を盗み見る。少し背を曲げて、遠くを見ていた。歩幅は小さくて遅い。生前よりゆっくりに見えた。

桜は、後ろにも前にも、左にも右にも続いている。遠くの方は白く霞み、終わりが見えない。腕を振ると冷たい空気が肌をなでる。吸った空気が喉を冷ます。

「ここ、桜海
さくらうみ
みたいだ」
「桜海?」
「前に本で読んだ。空と天国の間にある場所だって」
「ふーん」

五歩ほど歩いてから、伊方が話し始める。

「最近どうなんだ」
「何も変わってないよ」
「佐久真はそうだろうな」鼻で笑う。
「馬鹿にしてんのか」

俺は口をとがらせてから、ニヤリと笑う。

「一つあった。最近宇野君とよく話すんだ」
「宇野?」目を丸くする。
「いい子だよな、大型犬みたいで」
「それはオレの知ってる宇野じゃねぇ」
「確かに聞いてたイメージとは違うな」
「騙されてんだよ」
「そんなことないって」
「そんなことある。佐久真は騙されやすいから」

俺は口をゆがめる。

「お前に俺はどう見えてんだよ」
「変人趣味のお人好し」
「ホント何が見えてんだよ!」

勢いでツッコむと、伊方はケラケラ笑って、息を抜くように顔が緩む。

「でもよかった。佐久真に友達ができて」目を細める。「オレがいなくても大丈夫だな」

心臓が動かされた。次の言葉が出てこない。伊方がきょとんとする。

笑え、と頭が言う。笑おうとして、笑おうとして、顔をそらした。すぐ顔をそらせばよかった、こんな顔を見せるくらいなら。

隣で足音が止む。足を止める。

「……佐久真、あれ」道の先を指す。

踏切だった。狭い小道にこぢんまりと立っている。さびているが、黄色と黒のインクが桜の中でチカチカと浮いている。電線と線路も合わさって、一本の境界線のようだ。

「変な踏切だな」

歩き出すが、伊方は動かない。振り返る。伊方は踏切を見つめている。

「オレは行けない」
「行けないって」

寂しそうな顔をする。

「あの先はオレの世界じゃない」

息を呑む。――桜海は空と天国の間にある。ここは生と死の境目。

俺は空へ。伊方は、天国へ。

俺たちはここで別れなければならない。

踏切の奥は深く霞んでいる。俺は頭を落とし、拳を握る。

伊方は何も言わないで、待ってくれている。

俺はジャケットからくしゃくしゃの煙草を取り出した。煙草を差し出すと、伊方は驚いてポケットを探る。俺は眉に力を込めて話す。

「勝手に持って行ってごめん。次会ったとき、返そうと思ってたんだ」

伊方は箱を開けて、吸い口を指でなぞる。

「全部あるな」

どきりとする。

「そうだよな。割り切れないよな。でも、決めたんだよな」

独り言をつぶやくと、煙草を一本取って、箱を俺の手に戻した。

「残りは次でいい」

うつむくと目が髪に隠れる。口が小さく笑う。取り出したライターで火を付け、煙草を吸う。横顔が煙を吹く。

「でも、吸ってもいいよ。吸えばまたここに来る」

踏切の鐘が鳴り出した。不安定な金属音は耳元までくっきりと聞こえる。

「行けよ。通れなくなるぜ」

俺は目を閉じている間に振り向いて、踏切を渡る。

振り返る。踏切との距離は数メートル。線路を境に向こうはもう霞み始めていた。遮断機がガクンと揺れる。今ならまだ、走り抜けられる。

一歩踏み込んだとき、伊方が手を振った。頭の上に挙げた手を大きく揺らしている。白い空気の中で、メッシュと、瞳が浮かんでいた。押しつぶしたような瞳と目が合う。遮断機が視線を遮る。

俺は腕を高く上げて、勢いよく振った。大声で叫ぶ。

「必ず返しに来る!」

伊方は煙草を掲げた。手の先から煙が登っていく。

俺は踏切に背を向けて歩き出した。鐘がまだ鳴っている。歩いて、速く歩いて、走って、潤んだ目を閉じ込めてひたすら走る。

顔を上げる。桜が涙でにじんでいる。腕を振り続ける。明るくなった空全体が桜を照らす。花が白く輝き、桃色が光る。

鐘がまだ鳴っている。鐘の音は、足が付くより前に、あるいは後に限って鳴る。少しずれた高さで、なのに速度は一定で、狂い無く耳元で鳴り続ける。外からというより、頭の奥から鳴っていた。

鐘が消えることはない。この先もそうだと思った。それでもいい。きっとお前はそう言ってくれる。

だから、一本足りない煙草を返しに来るよ。

いずれまたここへ。桜海で。


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