とな天短編小説『俺は小説』

2025年10月11日

目次
  1. 概要
  2. 本編

概要

本編

北向きの病室は午前でも暗い。俺は電灯をつけて机を照らす。ノートの題名は書かないまま、思いついたところから場面を切り取る。

冷たい風がそよぐ。ここの窓は半分しか開かない。ベッドの上で身を乗り出すと、フレームの間から並木道が覗く。街路樹はすっかり葉が落ち切って、道を歩く人がよく見えた。手を繋がれた子どもがこちらに手を振った。振り返す。窓に知った顔がいたのだろうか。俺ではないことは確かだ。それでも俺に届いたメッセージを返さずにはいられなかった。

書くことがもう無くなりつつある。

病室から出られればまだ話題もあっただろうか。俺がトイレより先の廊下に出た日には、病院中が騒ぎになる。そもそも、誰もわからないだろうか。存在しない病棟の患者のことなど。

何もない日々は平穏の証拠だ。それでも時折考える。この先の一生を何のためにもならないまま使い潰すのだろうかと。

そんなことはない。君は自由だし、小説は自由だ。北向きの病室に朝日が昇ったって良いし、あの枯れ木が空をも突く大木になって、病室に届き、枝を伝ってあの子どもに会いに行ったっていい。雲の上には木の街があり、病も死も無く、あらゆる動物が歌い踊って暮らしている。君はそこでたくさんの笑顔に囲まれながら豊かな余生を過ごすだろう。

……俺は桐生先生が書いた文章を読んで戸惑う。

「先生、さすがにメルヘンです」
「ふむ。それもそうか」

先生は無造作なあごひげをかくと、ノートを俺に向けて、紙の角を机の角に合わせた。

俺はペンを取り、先生や俺の言動を書き写していく。

「君の小説だ。君のセンスで書かねば意味が無い。私のは後で消してくれ」
「いえ、このままにします。これはこれで面白いので」
「そうか」原稿を見て、前髪を直す。「君がいいならいいが」

先生はペンが止まるのを待ってから、口を開く。

「君が小説を書くのはめずらしい。詩ならよく見るが」
「ふと書いてみたくなって。でも難しいです、詩とは勝手が違う。現実をそのまま書いてるから、余計に」
「私は読み専だが、作り手の苦労は察する。大変だろうが、君の新作は楽しみだ。完成したらぜひ読ませてほしい」

俺は微笑もうとして、少し苦笑いになってしまった。先生もわかって、付け足す。

「検閲も研究も二次目的だ。私は純粋に……と言っても、説得力は無いな」
「ああ、いえ、それも、あるんですけど」少し遅れてペンを動かす。「いつも読ませていることが、申し訳なくて」

先生はイスに座り直し、俺と目と合わせる。俺は、うつむいてしまう。

「正直、俺の書くものは、つまらないんじゃないかって思うんです。何も起こらないし、暗いし。小説は特に、時間経過が大切だから、悪目立ちしてて」

筆跡が鳴り止んで、手の中でペンを回して、先生が言い切る。

「小説は自由だ」

先生を見上げる。影の瞳が薄っらきらめいている。

「北向きの病室に朝日が昇ったっていいし、枯れ木が空をも突くような大木になってもいい。もろろん、いつまでも直らない廊下の照明も、変わり映えの無い窓の景色があってもいい。大事なのは、小説が君であることだ。あるいは、小説はどうしようもなく、君にしかならない。好きなだけ君のことを書けばいい。君が心から願えば小説では叶う。小説は自由なのだから。そうして綴られた誰かそのものをあびせられたくて、私は小説を読む。君はどうだ」

俺は押し黙ってしまった。先生は立ち上がり、白衣の裾を払う。

「ゆっくり考えなさい。答えは読もう」

先生が病室を去り、俺は慌てて今までの言葉を書き起こす。――このー文を書き終えて、思考する。

確かに俺も、作家の個性が出た小説が好きだ。暗く淀んだ世界の中に沈むとき、暖かい深海に包まれているような気持ちになる。でも誰かの小説と、自分の小説は、重ならなかった。

この小説を頭から読み返し、所々直しながら、五回目。先生の文章を読んで,俺は再び筆を執る。

病室の扉が勢いよく開く。なんと、友達が俺のお見舞いに来てくれた! 天井をこする頭が屈み、花束を差し出して、太陽のように笑いかけてくれる。そしたら後ろから、これも大きい二人が、一人に苦言を呈す。一方は学術書のような言葉を並び立て、もう一人は子犬のように怒っている。三人はあれやこれやと言い合って、つい笑ってしまった俺に、三人もまた吹き出してくれるのだ。そのうち祖父や祖母、桐生先生も来て、皆でケーキを食べる。「誰のお誕生日でもないのにね」なんて言って、馬鹿馬鹿しくて、やっぱり笑ってしまうのだ。こんなことは起こりようがない。

俺が心から願うこと。それは皆の幸せだ。

俺の病気のことがもっとわかれば、世界中の病気も治せるし、かからなくなるかもしれない。理不尽に亡くなる人を助けられる。そのためにこの体が棒げられるなら、こんなに名誉なことは無い。

親族には申し訳ない。ずっと心配させている。桐生先生や友達、関わってくれた人々、謝りたい人を挙げ出したらキリがない。

でも皆、強い人だから。それぞれのやるべきことを見つけて、ゴールへ向かってまっすぐ走っていける人たちだ。

俺にできることは、少しでも世界の安心に貢献して、皆の良い思い出になることだ。

昼食を食べて薬を呑んだら眠くなる。慣れたことだ。俺の物語は変わらない。

ただ今日は、目を閉じて、祈る。皆が幸せでありますように。祈る間はきっと、安らかに眠れるだろう。

君の小説の続きが読みたい。


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