悪たし短編小説『生きていていいと言うために』

2025年2月8日

目次
  1. 概要
  2. 本編

概要

本編

襟ごと首が持ち上げられ、頭が後ろへ倒れる。老人を見上げる。彼は白い眉でまぶたを潰し、歯を食いしばる。怒鳴り声が脳に響く。

「美貴を殺したのはあんたか?!」

老人は俺を揺らし、「答えろ」と怒鳴る。

俺たちの間をおばさんが割って入った。おばさんは老人を引き剥がす。

「お父さん!」

老人は彼女の腕の中で暴れていたが、俺の顔を見ると、口をゆがめ、膝を落とす。おばさんの足に頭を押し当て、肩を揺らして泣く。

「美貴を、返してくれ」

俺は開いていた唇を引き、老人の前で両膝を突く。言葉は出なかった。ただ老人が泣き止むまでずっと見つめていた。

住宅街を歩いていたら老人につかみかかられた。俺は冴えない小太りオタクなので、変な奴に絡まれることもある。だがそれとは違う。

おばさんに案内され家に入る。リビングは広く、家具や装飾はよく手入れされている。

テーブルの角に座ってお茶を飲んでいると、リビングに老人が入ってきた。老人は堅苦しい顔つきをしていて、垂れ目で堅さが中和されている。

老人はじっと俺の顔を見る。

「似ていないな」

そう言ってため息を吐く。……似ていない?

老人は席に座ると、深く頭を下げた。

「取り乱してすまなかった」頭を上げる。「急に怒鳴られて怖かっただろう」

俺はかえって困惑する。ちゃんと話すと普通の人だ。

彼は武田と名乗った。俺は気になっていたことを聞く。

「あの、ここ四年で、誰かが事故で亡くなったり、行方不明になったりしてませんか」
「確かにそうだが……」
「俺が知っていることと関係あるかも。教えていただけませんか」

武田さんは一度腕を組み、唸ってから、「わかった」と腕をほどく。

彼はテレビ台から写真立てを持ってきた。写っている女の子は中学生に見えるが、服装は雑誌モデルのようだ。

「武田美貴。去年行方不明になった孫だ」

写真立てをテーブルに置く。俺は質問する。

「行方不明とのことですけど、さっき、お前が殺したのかって」

武田さんは口を曲げる。押し黙ってから、とつとつと語り出す。

「……美貴の幽霊が言ったんだ、『わたしは殺された』と、悪魔に殺されたと」

俺は口を結ぶ。武田さんは続ける。

「美貴が家族に内緒で会っている男がいた。背がとても高く、濃い黒色の肌で、スーツを着た美男子だった。美貴はクロナガと呼んでいた」

手を組み、頭を落とす。

「信じてもらえないのは承知している。それでも見たんだ、美貴の幽霊を、あの悪魔を、私だけが。……君を見て驚いたよ。あのとき君が、クロナガという男に見えたんだ。ああもう、何がなんだか」

首を内側にひねり、頭をかいて抱える。

俺は脳に意識を向ける。浮かんだ顔に声をかける。

『黒永』

ベージュの肌、流した前髪、切れ長の目。口を開けば途端にとぼけ顔だ。

『なあに?』
『写真の子、覚えてるか』
『知らなぁい』
『……そうか』

武田さんに向きなおる。

「話してくれてありがとうございます。……俺も突飛な話をします。信じても信じなくてもいいです」

武田さんが少し顔を上げる。

「美貴さんを殺したのは俺の友人です。友人は元人間で、悪魔になって、俺のために人を殺していました」
「……友人は、今どこに」
「死にました」息を吸う。「俺が殺しました。詳しくは話せませんが、悪魔を討伐する団体に依頼されて介錯しました」

武田さんは、見開いたまぶたを、瞳と共に下げる。手のひらを額に当る。「そうか」つぶやいて、「そうか」とかすれる。絞り出すように言う。

「仇を殺してくれてありがとう」

部屋が静かになる。俺は、眉間に力を込める。

「悪魔としての友人は死にました。でも実は、まだ生きてます。友人を殺したとき、魂だけは俺の中に残ったんです」

目が合う。瞳にしっかりと視線を合わせる。

「美貴さんは俺が殺したようなものです。……俺を殺せば、友人を、犯人を殺したことになる。代わりに俺を殺しますか」

彼は口を緩く開いた後、鼻から息を抜いて、目尻を下に引いて笑う。

「殺せないさ。君はいい人だから」

俺はつい目線が揺れて、「わかりました」と反射的につぶやいた。

玄関を出るとき、連絡先を交換した。

「その、俺を殺したくなったらいつでも呼んでください。話ぐらいは聞けるかも」

武田さんは優しく笑う。

「ありがとう」

俺は家を出て歩き始める。角を曲がると、黒永がつんとした顔で出てきた。

『なにあの挑発? 死にたくないくせに』
『なんでだろうな。言ってよかったのかもわからん』
『あの人になら殺されてもいいとか考えてた?』
『それはない』すっと返す。『あの人に殺されたら他の遺族が俺を殺せない。それに、あの人を犯罪者にしたくない』
『ふーん』

黒永は声のトーンを落とす。

『こういうのってまだあるのかな』
『こういうの?』
『正継が怒られたり、危険な目にあったり』

少し言葉に詰まってから、つぶやく。

『オレのせいで、正継が不幸になっちゃわない?』

目を細める黒永に、俺ははっきりと返す。

『それでもいいよ』

ふと足を止める。キッチンカーだ。

『いいな。食べていこうぜ』
『えっ。いいけど……』

メニューを指し、どれがいいか聞く。『赤いのと黒いの』と言うので、いちごとチョコアイスのクレープを買った。かじりつく。いちごのみずみずしい甘さと濃いチョコの香りが口内で混ざり合う。

『おいし~ねぇ』
『ああ、うまい』

思わず口端が上がってしまう。

『お前と美味いもんが食えて、俺は幸せだよ』
『……そっか』

黒永はちょっと困ったような眉をして、『正継が幸せならい~や』と笑った。

お前のそういう顔を見ると安心する。

歩きながら考える。俺は幸せになりたい。黒永にも幸せでいてほしい。そう思えるようになったのは黒永のおかげだ。同じものを返せずに何が友達だろう。

だから、お前と同じ罪を背負うよ。

どれだけ償えるかはわからない。今回のように穏便に済む話ばかりではないだろう。

それでもいい。怒鳴ればいい、殴ればいい、殺せばいい。俺はもう逃げない。

俺に生きていていいと言ってくれたように、お前に生きていていいと言えるように。

そうして、貴方に、生きていていいと言うために。


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